振り返りの目的

なぜつまんねぇ自分史を書いているかと言うと、来月上旬くらいに家族と別れて一人になることが決定したからです。家族とは別れます。このまま、絶縁している実家とも和解せずに一生孤独で過ごすつもりです。再婚も一生しません。老いても子供に世話してもらいたくないので、どうにかして老後暮らせるだけの財産を築きたいと思っています。すべては、失敗でした。

どうしてこんなことになったのか流動的でふわふわして全く整理できていないので、自分なりに原因を考えて自分の文脈と位置を把握しておきたいからです。

ブログのタイトルは、毎日六帖の部屋にこもって仕事をしていたことからつけたのですが、本当に、六帖の部屋に一人きりで生活することとなりました。


振り返り 中1-3

前回記事

 

塾をやめたので公立の中学校に進みました。田舎ですので適度に荒れています。荒れるのを防止するために、全員が強制的に部活動に加入させられます。私は小学校時代に運動に劣等感を持ったので、文化部しか居場所はないだろうと考えていました。そして吹奏楽部に入りました。

中学の部活動というのは拘束時間が長いものです。3年間ほとんど部活動しかしてなかったんじゃないかといっても過言ではありません。特に夏休み。ほぼ休みなしで毎日8:30~17:00くらいまで酷暑の中練習するなんて尋常じゃないです。何人か脱落者も出ましたが数人にとどまります。あの環境を生き抜いた人間は大体なんでも耐えられるんじゃないかと回想しますが、高校に入った私の気力が急速にしぼんだことを考えると燃え尽きた人間の方が多そうです。なんでもスパルタすりゃいいってもんじゃありません。

吹奏楽部では同学年の男子が自分を含めて3人しかおらず、仲良くなりました。そのうちの1人とは今でも連絡が奇跡的に続いています。

もう1人の男子とはよく遊びました。しかし小学校のときと同様、劣等感を抱くことが大きくなりました。中学生と言えば第二次性徴、色ボケの始まる時期です。彼はよくモテました。部屋に後輩のダレを連れ込んだだの何度かそのような話を男子陣でこそこそしていましたが、羨ましいものだと思っていたものです。

私はADHDもおさまってきて積極奇異からシゾイド系に移行する途中でしたので、いわゆるオタク趣味を持ち始めた頃でした。WIndows95, 98やパソコン通信、インターネットが出現しPCが一般家庭に浸透する時代、私の家にもPC98という機種がやってきました。私は小金持ちの祖父からもらったお年玉を何年分か貯めてMIDI音源(SC-88)を手に入れていましたので、niftyやインターネットからMIDIデータをダウンロードしまくったり、自分で耳コピする作業を行ったり、そんなことばかりやっていました。中2–3の頃になるとインターネットが普及し、いかがわしいソフトを手に入れられるようになりました。そう、LeafやらKeyやらで一躍有名になったエロゲーです。あそこに没入すると「3次元はクソ」と豪語できる境地に移動することができるようになります。

こんなものにハマっていても現実の学校生活にはモテ人間が存在します。のでどれだけ「3次元はクソ」と思っていても、彼らには劣等感を抱くものです。そして、経験上田舎で文化がない地域ほどモテが人間の尺度となる強度が高い。他に娯楽が無いからです。学校というのは残酷なものです。たいてい中学生の時期に培われた価値観は、そのまま高校~大学~長い人は社会人になってからも継続され、どんどん強度が増していくことでしょう。

田舎はすごいですよ。身の回りに「先輩の家でエッチした」「夕方薄暗い自転車置き場でやった」「体育倉庫の跳び箱の上でやった」などなどの武勇伝がそこら辺を飛び交ってました。主人公はみんな同じ部活の人ですので生々しい。

私はこの頃、モテ話の外側にいると自分を勝手に既定していました。中学の頃となると、生まれつきの体の不器用さがだんだん尖鋭化してきていて、楽器を上手く扱えず一人だけメンバーを外されることもありました。また、演奏に表情を付けることがどうしてもできなかった。これは今考えると、自閉症スペクトラムと大きく関係していたと思います。どうしても演奏が平板になる。指だけは回る。例のモテ男君と比べるとその劣等感は大きく、加えてやせ形で自己評価は低め、ランニング中に隣の高校生に「のび太が走っている」とからかわれたこともありました。ですので私は勝手に「外側」にいると自分を決めていました。防衛機制の一つだったのかもしれません。

一度だけ転機がありました。ある女の子がラブレターを渡しに来るという事件があったのです。しかしそれは後ろで女子数名が面白がりながら見守っており、そもそも呼びに来たのが本人ではなく別の女子でした。私はこれを公開処刑だと考えました。後ろでゲラゲラしている人間に耐えられない。屈辱でした。そしてラブレターをごみ箱に捨ててしまいました。今考えると直接渡しに来る勇気を持てず他の女子に伝言せざるを得なかった本人の気持ちはズタズタだったろうなと思いますが、当時の私にはそんなことを考える回路が存在していませんでした。自分を「外側」と規定していたこともあったのかなと思います。

 

中学では小学校のときに通った塾と同一系列の塾に入らされました。今度はさすがに、塾に行く意味は分かっていました。地域トップの公立校を狙えということでした。

しかし中学には「内申書」というクソのような制度があります。私は内申書の点数が極めて悪かった。なぜかというと、宿題を提出できなかったからです。塾のように時間的に強制されるならともかく、学習を自主的にやれと言われるくせにペースが他人から与えられるというのは苦痛でした。予定を立てられないという性質もありました。そして、他人の宿題を写したり答えを写したりするのも、みんなやってるのに、自分にはどうしてもできませんでした。正義感というものではありません。不合理なこだわりのようなものだったと考えています。そして、宿題をやらないまま夜が来ると自己評価が下がり、それから逃避するためにパソコンに向かって夜更かしし、そのまま宿題はできず深夜となり力尽きて眠る。なにもしないで内申点だけが下がっていきました。主要5教科で5段階の最大評価がついた科目は、一つもありませんでした。

これは現在の高校入試でも変わらないのですが、難関校ほど内申書を重視しません。私が受験した高校は内申書の点数配分が1割だったそうです。なのであっけなく合格しました。教師には「なんでお前が」と言われました。こうして高校進学後に、また転機を迎えることになります。中学までに基盤が作られ、高校で大きく方向性が変わりました。また来週に続きを書きます。

 

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振り返り 小5-6

前回記事

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小5~小6あたりから記憶がポツポツ残り始めます。

私は小4くらいから(いつからか曖昧)?徒歩10分くらいのところに住んでいたO君の家に入り浸っていました。8割くらいの確率でN君もやってきて、3人でいつもゲームをしていました。当時はファミコン~スーファミ~プレステ+セガサターンに移り変わる家庭用ゲームの過渡期だったため、ゲームの種類には事欠きませんでした。O君の親は公務員で、それなりにお金があったため最新のハードがいつもありました。溜まり場となったのは必然でした。時々物干しをゴールにしてサッカーで遊ぶこともしていました。

私はゲームでも、サッカーでも2人に全く勝つことができませんでした。特に格ゲーが全然ダメ。ストII~飢狼伝説~ストZERO、アーケードではKOFといったカプコン・SNKの当時の格闘ゲームは一通りプレイしましたが、対人戦ではほとんど勝利なし、乱入されると即死、CPU戦でも4回戦までには確実に負けるという有様でした。ここで私にゲームも運動も苦手という劣等感が植えつけられることとなりました。

小5になると小3か4のときの担任から私立中高一貫校を受けるように助言があり、電車で20分ほどの街の塾に週1で通うようになりました。何しろ田舎でしたから、県内の私立中で名門と呼べるのは1校しかなく、そこに合格することが将来の学歴を保証する貯金のような存在でした。しかし私は塾に通うことの意義など全く知りませんでした。ただただ教師と親の言う通りの場所に行って、勉強していました。5年生になったらみんな勉強するもんなんだな、とだけ考えていました。成績は良かったようです。

夏期講習やら冬期講習やらに通い、年が明けるころに6年生になると塾には週2回や3回行かなければならないことを知らされて、はじめて「あれ、O君もN君も塾なんか行ってないぞ」ということに気が付きました。ふつう週1で通っていても気が付くと思います。私は嫌がりました。だって、週2回3回も塾に行ったら、O君N君と遊ぶ時間がなくなるじゃん、と思ったからです。私にとっては将来とか勉強とか全く考える能力はなく、ただ算数の先生怖いなとか、国語で作者名沢山覚えるの面倒だな、という感覚しかありませんでした。ですので、遊ぶ時間が無くなるという理由で、塾をやめました。今考えると親も親ですね。私立中に行く意味、なんで教えてなかったの。

あのまま塾に通っていたら、私立中高一貫にはほぼ間違いなく合格していたと思います。そうしたら私の人生はどう変わっていたのか、今でも興味があります。結果的には、塾をやめていて正解だった、と思いますが。。

小学校の授業中、わたしはADHDだったと思います。授業中、手を上げる前に正解を言ってしまうのです。授業にかなり差しさわりがあったでしょう。担任には「口の害と書いて口害」と言われていました。これだけ見るとなんかパワハラっぽいですが、おばちゃん先生だったこともあり私は全然気にしてませんでした。むしろ面白がっていたと記憶しています。

特定の女の子が毎日牛乳を残すので、私は毎日その子に牛乳を貰い、1年間毎日400mlの牛乳を飲んでいました。しかし身長は伸びませんでした。牛乳で身長が伸びるというのはうそです。

マセな友人が「好きな女の子を決めよう」などと言っていました。誰が誰を好きということにする、というごっこ遊びみたいなものです。私は全く意味が分からないで適当にその牛乳をくれた女の子を指定しました。だからといって何かアクションをしたわけではありません。今どうしているかも知りません。

4コマ漫画の起承転結を友達に話すのが好きでした。台詞を全部覚えていて、順番に言うのが好きでした。今ではそんなに記憶力が無いので無理ですね。また、祖父の家でCATVを見られたため、そこで邦楽や洋楽のランキング番組を見て、毎週チャートをノートに書き写すのが趣味でした。毎週40位くらいまで書き写していたので、そのあたり2年間だけ、の邦楽洋楽には詳しいです。ウルフルズがバンザイを歌い、小室哲也が猛威を振るい、スパイス・ガールズがワナビーを歌い、ケミカル・ブラザーズが爆発していた頃です。ビデオテープからカセットテープにランキングの1位の曲だけを抜き出してオムニバステープを作るのも好きでした。一見重要そうではない物事への収集と分類、順列への興味が大きく現れていたと思います。でも本当に楽しかったのです。そういえば父もレンタルCD店からCDを借りてカセットテープにダビングするのが趣味でした。家には何百ものカセットテープがありました。全部聞くわけじゃないので、収集することが目的だったんだろうな。私はそこから洋楽を知りました。

小学校時代で覚えているのはこのくらいでしょうか。次は中学校です。

 

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書籍レビュー: 現時点最強の思想入門書か 『ヨーロッパ思想入門』 著: 岩田靖夫

★★★★★(๑•̀ㅂ•́)و✧

 

岩波ジュニア新書すごいっすね。新書ではこれが最強です。

著者の岩田靖夫さんはほんの最近(2015/1/28)に逝去された学者です。本書がヨーロッパ思想の概観書として異色なのは、ギリシャ哲学とキリスト教に全体の2/3というほとんどの紙面を割いていることです。それは著者が、西洋思想はこの2つに大きく根差していると考えているからです。

筆者は、この本の第3部でヨーロッパ哲学のわずかな、しかし重要な節目を歌った。それは華麗な大交響曲からの、筆者の好みによって選びだされた、ほんの数小節である。しかし、それで、ヨーロッパ哲学の本質は伝わると筆者は確信している。

ちなみに第3部はアウグスティヌスやトマス=アクィナスも含まれるので、キリスト以後の思想家は全体の1/4しか記載がありません。

理想的で高慢なギリシャ人

ギリシャ人は理想を追求する民族でした。ギリシャの美しい彫像はすべて同じ表情をしています。ここには、不完全なものは存在として「劣っている」という厳しく高慢な姿勢がありました。ギリシャ神話の神とは、すべて人間が理想としたものの結晶でした。これは逆に、人間を神のようなイメージに持ち上げて賛美しているともとれます。この理想の高さが、普遍的なもの、形相的なもの、理念的なものへの追求へ向かい、豊饒な哲学が生まれたと筆者は書いています。

筆者が西洋哲学の根幹の一つとして紹介しているのがパルメニデス(前515ごろ-450ごろ)の思想です。彼が到達した真理は、「存在の不滅」でした。平家物語的な流れゆきうつろいゆく存在ではなく、単一で超時間的で普遍不動な「存在」が必ず存在する、という主張です。長いですが本書で感銘を受けた所なので、引用してみます。

まず、(論理的に)必然の真理として「あるか、もしくは、あらぬか」という二者択一がある。この二者択一において、「あらぬ」という前提は、あらぬのであるから、前提自身が前提自身の成立を否定している。もちろん、「あらぬ」と発言することはできるが、そのときには無意味な発言をしているのである。ギリシア語で文字通り「あらぬことを語る」というと、「ナンセンスなことを言う」という意味の熟語になるが、無に関する発言はパルメニデスによれば、すべてこの熟語の言うとおりナンセンスなのである。

それならば、二者択一の残る項は「ある」であるが、この「ある」はたんに論理的な前提として立てられているのではなく、絶対の所与として立てられていると言ってよい。この「ある」について、パルメニデスはその誕生を求めてはならぬと言明している。なぜか。まず、「ある」が「あらぬ」(無)から生じたと考えることはできない。なぜなら、いましがた述べたように、「あらぬ」はあらぬのであって、語ることも考えることもできぬ非実在、無意味、虚妄だからである。では、「ある」は「ある」から生じたと考えうるか。否。なぜなら、そのときには、生じた「ある」は「あるでなかった」という自己矛盾が生ずるからである。

「ある」「あらぬ」が複雑に絡み合って頭の痛くなる文章ですが、論旨は明快です。私たちが「ある」「ない(あらぬ)」と日常的に表現している当たり前のような事実がひっくり返されてしまうこの文章は驚くべきものでした。あらぬことはありえない。この後は「ある」の不滅性までもが議論され、単一で不可分な「ある」で全世界がおおわれていく様子が描かれます。おそらくこれがユダヤ・キリスト教的な「神」の存在に繋がっていくのではないかと思われます。前提をどこまでもさかのぼっていける哲学者には憧れるばかりです。

自由とキリスト教

一度新約聖書を通読したというのに、私はキリスト教を絶対神に服従する窮屈な宗教と認識していました。それが大間違いであることを、前書きで突き付けられました。

キリスト教は自由と寛容の宗教でした。神は自己の似姿として人間を創造しました。キリスト教の神は唯一絶対なるものです。ということは、その似姿である人間も一人一人が唯一絶対なるものだということです。ですから、一人ひとりを何らかの普遍的な概念で繋ぐということは、許されません。それは絶対なものであるという定義に反するからです。すなわちアンチクライストとは、全体主義者です。そうか、ヨーロッパの個人主義って、ここから来てたんだ。。なんで気づかなかったんだろう。魅力的なアンチクライストにははみ出し者、個人主義者が多いように思えますが、それは教会的な社会そのものが間違ってるんだと思います。キリスト教、もっと深く知りたくなりました。

ここから、キリスト教の核である他者への愛=他者の自由の尊重のこと、ユダヤ教の偶像崇拝の禁止=自己神聖化の禁止、という思想の帰結であることが分かります。これ、今の私の最大の課題と考えていることですので、このままだとキリスト者になってしまうかもしれません。。いまのところ、無神論ですけれど。

理性=暴力、レヴィナス

最後1/4ではデカルト以後の哲学の展開が描かれますが、筆者がパワープッシュしているのはレヴィナス(1906-1995)です。彼はユダヤ人で、現象学を基礎としつつもユダヤ教の影響を強く受けています。彼の思想で衝撃的なのは理性=暴力であるという主張です。

ヨーロッパの哲学はギリシャの初端以来根本的に無神論であった、とレヴィナスは言うが、それは、ヨーロッパの哲学が基本的に理性に真理の基準をおく哲学であったからである。理性では認識しえないもの、すなわち、根本的に自己とは異質なものを認めない。理性とは同化の力であり、全体化の力であり、それによって自己を貫徹する力であるからである。

私は理性って素晴らしいと思っていました。他者からの肉体的心理的なコントロールに屈することなく、どんなに弱いものでも自ら立つことのできる唯一の力だと思っていました。しかしレヴィナスには、それは異質なものを排除する力、端的にいえば暴力であるのだと言われてしまいました。

だが、この全体化の態度は、じつは、貫徹できないのだ。それは、他者に直面するからである。他者に直面したとき、私は冷水を浴びせかけられ、無言の否定に出会い、自己満足の安らぎから引きずり出される。私の世界が完結しえないことを思い知らされるのである。もちろん、自分の思い通りにならない他者をさまざまな暴力によって排除し抹殺することはできる。しかし、そのような殺人は全体化を完成したのではなく、むしろ、全体化が不可能であったことを証しているのである。

ユダヤ教というよりはキリスト教的思想に見えます。愛、すなわち他者を尊重しなければならない裏付けが述べられています。この記述は、一生涯私を刺し続けるように感じました。人間が人間である以上、他者を完全に抹殺することは不可能と言われてしまいました。このあと、「他者は無限である」というとても跳躍しているようで本質を射抜いた展開がなされます。

さらにこの後、たまたま通りかかった道端で苦しんでいる者を見捨てなかった「善きサマリア人」を人間の本質とし、否応なく他者と関わり責任を負うことが課されているのが人間だ、だって、みんな神から作られている者なのだもの。連帯責任があるよ。というのがラストの結論ですが、さすがにここまでは同意できません。責任を創造論に回収するのはちょっと、私にはできないですね。そんなことよりも自分の生活を第一に考えてしまいます。余裕がある人が責任を負えばいいよ、私にゃ負いきれんよ、と思ってしまいます。

 

私は読書時に小さな付箋を使って感銘を受けた箇所に貼っていき、あとでざっと読み返したりブログの素材にしたりするのに役立てています。この本、付箋を貼った個所が20か所もありました。過去最大です。それだけ、驚かされることの多い本でした。読みにくいヨーロッパ思想書は多いですが、それはあなたの頭が悪いのではなく、著者や訳者の日本語が破壊されているんだと思います。この本は読みやすい上にびっくりすることが多い本でしたので。最初の一冊、座右の一冊、どれにするとしてもおすすめです。私も時々読み返そうと思います。

 

 

 

関連書籍

岩田先生の自推書

倫理の復権―ロールズ・ソクラテス・レヴィナス

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 おそらく遺作

極限の事態と人間の生の意味: 大災害の体験から (筑摩選書)

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 ギリシアならまずこれだって言われた

歴史 上 (岩波文庫 青 405-1)

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 現代人から見た新約聖書

新約思想の構造

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 田川建三さんは最近新約聖書の分厚い注解を出した人で、以前から興味があります。

イエスという男 第二版 増補改訂

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やっぱり必読なんだって。好きなブロガーさんも読んで人生変わったと言ってるし、近いうちに読まなきゃダメか。

方法序説ほか (中公クラシックス)

方法序説ほか (中公クラシックス)

  • 作者: デカルト,Ren´e Descartes,野田又夫,水野和久,井上庄七,神野慧一郎
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2001/08/10
  • メディア: 新書
  • 購入: 2人 クリック: 23回
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 岩田先生イチオシのレヴィナス入門書

倫理と無限 フィリップ・ネモとの対話 (ちくま学芸文庫)

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書籍レビュー: 著者の熱意に感服 『マクロ経済学(New Liberal Arts Selection) 』 著: 斎藤誠ほか

★★★★★

 

経済学たのしい

経済学は一生かけて学んでいきたい学問の一つです。個人的な経済危機を何度も経験し、近いうちにド貧乏暮らしを余儀なくされそうな自分としては金にはうるさくありたい。金がどのように世の中を回っているのか知りたい。巷に溢れる怪しい経済論議の胡散臭さを見破れるようになりたい。政策担当者はどう考えて税制や所得分配を立案しているのかを知りたい。世界の金持ちはどう考えて資産を動かしているのか知りたい。好況と不況はなぜ起こるのか知りたい。経済関連は知りたいことばかりです。

ミクロ経済学が個人や1企業などの小さい単位の需要と供給を扱う学問だとすれば、マクロ経済学とは国単位や世界単位の経済を扱い、主にGDPの大小を議論する学問です。本書は1章まるまる90ページほど使って、SNA(国民経済計算)などの統計の重要性について説くかなり革新的な教科書でした。その後古典的なマクロ経済学を丁寧に説明した後、それらをさらにミクロ経済学を使って詳述していく「マクロ経済学のミクロ経済学による基礎付け」という章にかなりの分量が割かれています。ここから文字の大きさが小さくなり数式が増え、ぐっと読むのにエネルギーがかかるようになります。なぜこのような構成にしたのかは随所の前書きやあとがきに詳しく、斎藤教授の熱意が伝わってきます。

分量が多いので1日20分、3か月くらいかけて少しずつゆっくり読みました。後半はそれなりに数学を使うため苦しいですが、物理学に比べれば大したことはありませんでした。大学中退の私でもなんとか理解できます。といってもあと2回は読まないと内容が頭の中をただ通り過ぎただけになってしまいそうなので、何度も読もうと思います。

そのモデル正しいの?

他の社会科学もそうなのかもしれませんが、経済学はモデル化の学問です。これまでの経済学者の功績とは、人々の欲望の総和である経済というでっかいバケモノを、グラフと数式を使って単純化したモデルに落とし込む作業の集積でした。ほとんどのモデルには無理があるように見えます。というのも「合理的期待形成」だの「長期的には必ず均衡に至る」だの、人間に合理性を求め過ぎです。人間は非合理的な存在ですよ。みんなが頭いいわけじゃないですし頭のいい人間だってわけのわかんないことしますよ。読めば読むほど本当にこの数式でいいの?という疑問がどんどん湧いていきます。これは経済学を勉強する前にジョージ・ソロスの本なんか読んじゃったからだと思います。彼は経済学理論にかなり懐疑的でした。

しかし力学や電磁気学のようなモデルがないと思考する基盤すら生じません。オリジナリティが言語の蓄積を前提としてしか生じないのと同じです。ですのでこれらのモデルと頭に入れておいてから、ああでもないこうでもないと悩むのが健康的なのだと考えて、繰り返し本書を読むことにします。

 

本書は経済学部4年生くらいの内容までカバーし大学院入試にも十分耐えうる内容だそうです。4年分と思えば値段も手ごろですし社会人には極めておすすめできる一冊です。

 


書籍レビュー: よだれがでるよ!『人とミルクの1万年』 著:平田昌弘

★★★★★(‥ºั⌔ºั‥ )

 

牛、馬、羊、、、人間が家畜の乳を利用するようになって、およそ1万年が経つそうです。この本は世界の「ミルク史」なるものを地域ごとに詳述、「北方乳文化圏」「南方乳文化圏」なるミルク文明史とも言える大胆な仮説を展開していくダイナミックな書物です。いやー岩波ジュニア新書、すごいわ。

狩猟から搾乳へ

そもそも搾乳とは、狩猟文化からの劇的な転換です。動物を屠畜し食べればその動物はいなくなってしまいますが、搾乳により食物をえるということは、屠畜という単純な消費行動をやめ、家畜という資本からミルクという利子を生み出すストック化に人類が移行したことを表します。この論を読んでなるほど、こりゃすごいと感じました。乾燥のため植物性バイオマスに乏しく、狩猟から農耕に至ることのできない地域ではこのようにしてストックを生み出したのです。肉を食うよりミルクを飲んだほうが、餌からの栄養効率が3.7倍にもなるそうです。

進化の基本である淘汰圧の原理を考えれば、動物性タンパク源がほとんどない地域で乳文化が発達したというのは自然なことです。タンパク質を確保できない人類は病気で死ぬ確率が高まります。狩猟していたのでは牛も羊もいなくなり共倒れで死にます。すると、環境の厳しい地域では搾乳技術を生み出した民族だけが生き残ることができます。搾乳は難しい技術だそうですので、環境の淘汰圧が激しくない日本や北南米では搾乳する必要が無く、全然発達しませんでした。

ミルクの地域史と文明史

本書では主に西アジア(シリア)、インド、モンゴル、ヨーロッパに分けてそれぞれの乳文化の発達と変遷を紹介してくれます。特にモンゴルで筆者と懇意な家族がおり、かなり詳しい食文化が記述されています。搾乳できない雄の家畜を去勢するシーンなんか生々しくていいですよ。

ヒツジやヤギは、行動特性上、四肢を宙に浮かし、背中を地面につけると、暴れることをやめて落ちつきます。去勢は、ナイフで切れ目を入れ、睾丸を手で一気に引き抜きます。左側の桶に、引きちぎった睾丸が溜められています。(写真あり)

(中略)

引きちぎった睾丸はどうするかというと、やはり無駄にすることはありません。食べてしまいます。ミルクと一緒に似て調理します。味は、淡泊で食べやすくはあります。睾丸はタンパク質や核酸を豊富に含み、疲労回復に良いとされていますから、食べても問題ありません。

上野アメ横なんかに売ってるかもしれませんね、睾丸。

驚くのはどこの乳文化圏でも、ヨーグルトが基本になっていることです。人類が乳糖を分解できるのはたいていこどもの間だけで、成長するほどラクトース消化酵素が衰え、乳糖不耐症になるそうです。ミルクが乳幼児のための飲み物である理由です。これをヨーグルトにすると、保存性が良くなるうえに乳糖が発酵で分解され大人も食べやすいようになります。私も牛乳を買ってヨーグルトを作ってみようと思いました。種菌があれば簡単にできちゃうようです。

うまそうな食べ物たち

本編に出てくる乳製品の美味しそうなこと。クリームは洋菓子の基本ですし、チーズはヨーロッパの夏乾燥冬湿潤という気候に完全マッチし、あれだけ多様なチーズが生まれたそうです。ただチーズは買うと高い。日本には豊富な魚があったから乳製品は必須のものではありませんでした。学校給食、パン食の普及とともに乳製品も日本に広まりましたがまだまだ。必須じゃないものはどうしたって高くなります。特にバター、生クリーム、チーズは高い。

本書は文明史としても素晴らしい書物ですがそれぞれの国の食文化の紹介も舌なめずりしたくなるほど魅力的でした。インドの濃縮乳で作った乳菓、ヨーロッパの何か月もかけてできる樽みたいな形のカンタルというチーズ、食べたいものは沢山あります。死ぬまでに一度は食べてみたいです。食べて、彼らの生活や文化に思いを馳せてみたい。

 

 

関連書籍

 

類書 岩波ジュニア

パスタでたどるイタリア史 (岩波ジュニア新書)

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類書 チーズ

チーズと文明

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 著者によるさらにつっこんだ詳論

ユーラシア乳文化論

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 世界の食文化。うう読んでみたい

世界の食べもの――食の文化地理 (講談社学術文庫)

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CDレビュー: Electric Wizard – Come My Fanatics…(1997)

★★★★★

 

Electric Wizard2枚目です。1枚目と比べると重低音と曲の「遅さ」が際立ちます。

1曲目Return Tripが一番やばい。やばすぎます。この1曲でお腹一杯。

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ただ苦しんでいるだけのヴォーカル、胃の内容物を上に押し上げる効果しかなさそうな低音強調し過ぎのギター*2とベース、そしてずっと泣いているドラム、、この苦しみはいつまで続くのか、10分これを演奏し続けるなんてホンマモンのアホですな。

3曲目Doom Mantiaも聞いていると魂が遊離しそうです。4曲目Ivixor B/Phase Inducerも頭がどうかしている。

このアルバムの怖いところは、よく若いモンが背伸びしてカッコつけてタバコ吸っちゃうもんねーっていうような痛さが全く見えない、ごく自然にプレイしているところだと思います。日常なんでしょうねこれが。

 

 

ロック等の他のCDレビューはこちらです。


CDレビュー: Yes – Heaven & Earth (2014)

★☆☆☆☆

 

イエス最新アルバム。20枚目です脅威ですね。よくこんなに出せたもんです。

しかし、、薄い!薄すぎる!タンパク質が半分以下になったトモエ乳業の低脂肪乳って感じ!つまらなさすぎて1曲も印象に残る曲がありませんでした。残念。全く付けるコメントもありません。最後の最後でこれは悲しすぎる。

 

 

 

次回から、最新アルバムのPale Communionが非常に良かったスウェーデンのOpethというバンドのアルバムを順番に聞いていこうと思います。

 

 

プログレッシブロックの他のCDレビューはこちらです。


CDレビュー: DakhaBrakha – Yahudky (2007)

★★★★★(∂ω∂)

 

ウクライナのエスノカオス集団DakhaBrakha、1枚目のスタジオアルバムです。前回聴いたLightは3rdでした。公式サイトによると1stの前に”Na dobranich”ってライブアルバムがあるらしいんですがAmazonで取り扱いがありませんでした残念。

あ、よくみたら公式サイトで全曲公開されてるじゃん!

DakhaBrakha official site – ДахаБраха офіційний сайт

すばらしいすばらしい次回はこれを聴きます。

 

で、1stアルバムは見込んだ通りめちゃんこ熱くて暑いアルバムでした!このアルバムは全編にわたって燃える打楽器群に支えられており、女性ヴォーカルの野太いお祭りコーラスによって気持ちが燃え上がること間違いなしです!ヒャッハーヒャッハー言ってますふなっしーもびっくり。

 

1曲目Sho z-pod duba(なんて読むんだ!?)からぶっ飛ばしてます。この曲は男性の掛け声もイケてます。

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不気味度とトランス度では6曲目Na dobranichが図抜けてますね。これはライブアルバムと同じタイトルですので、あっちにも入ってるのでしょう。

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こわすぎ

 

 

 

ワールドミュージックの他のCDレビューはこちらです。


書籍レビュー: トレードオフなエコシステム『カラー図解 アメリカ版 大学生物学の教科書 第5巻 生態学』 著: デイビッド・サダヴァ他

★★★★☆

 

しばらく書籍レビューが簡素になります。

 

第5巻は生態学、英語で言うとエコロジーの分野です。第1巻~3巻がミクロ生物学なら、4~5巻はマクロ生物学。私はミクロよりもマクロ分野についてなかなか理解がついていかないようで、新書並み200ページちょいしかないのにずいぶん苦労して読みました。

気になった話題はまず生活史トレードオフ。生物が得たエネルギーは繁殖・成長・防御・ホメオスタシスという機能に分割され、すべてを足したエネルギー量は一定だからどれかの機能を高めるとどこかの機能が損なわれるよ、という理論です。例えばストレスが多い環境にいるとホメオスタシスで精一杯になるため他の分野にエネルギーが全然回らなくなります。だからストレスがかかると痩せるんですね。

取引と言えば相利共生。ミツバチが花粉を運んでくれるとかハキリアリがキノコのために葉を切って運んでくれるというような一見利他的に見える関係のことです。人間が美しいドキュメンタリーや物語に仕立てがちな動物の行動ですが本書では「他の生物のために形成される構造なんかあり得ない」というドライな立場を貫きます。ダーウィンがそう言っているそうです。ミツバチは蜜を吸いたいだけだしハキリアリはキノコ食いたいだけだよ、動物は詐欺を働いてまで他の動物から資源を搾取しまくるのが基本だよん、という見方はリアリスティックで好感が持てました。

あとタンパク質の基になる窒素分を生み出すための窒素固定は微生物しか行えるものがいないっていうのはゾッとする話でした。というのも空気中の窒素って三重結合してて強固だから簡単に切れる生物が全然いないんですって。微生物がいなかったら植物も動物も私たちもいなかった。微生物はすべての生物の母だ。偉大だ。微生物のことはもっと知りたいです。今でこそ人類が窒素分固定しまくって過剰に肥料やりまくりなんて贅沢もできるようになりましたが、その人類だって微生物がいなければ生まれようがありませんでした。

薄めの教科書だからしょうがないのかもしれませんがどの記述もページ数が少なめで私にとっては説明不足でした。詳しく知りたければナショナルジオグラフィックを定期購読するとか新しめの科学読み物を読んでいくといいのかもしれません。

これでこのシリーズは全部読破しましたが生物のことを全然知った気がしません。1万円超のでっかい生物書をローンで買ってゆっくり何度も読もうかしら。

 

関連書籍

 

ちょっと古いけど生態学のよさげな教科書

Ecology: From Individuals to Ecosystems

Ecology: From Individuals to Ecosystems

  • 作者: Michael Begon,Colin R. Townsend,John L. Harper
  • 出版社/メーカー: Wiley-Blackwell
  • 発売日: 2005/07/29
  • メディア: ペーパーバック
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 日本語訳。10000円超。たかい

生態学―個体から生態系へ

生態学―個体から生態系へ

  • 作者: マイケルベゴン,コリンタウンゼンド,ジョンハーパー,神崎護,曽田貞滋,幸田正典,Michael Begon,Colin R. Townsend,John L. Harper,堀道雄
  • 出版社/メーカー: 京都大学学術出版会
  • 発売日: 2013/03
  • メディア: 単行本
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 微生物。

微生物学 (基礎生物学テキストシリーズ 4)

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 植物に絞った新しめの生態学書

植物生態学

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