模倣、受動、オリジナリティ

自分の言葉で話さない人間が増えているという。私もその一人だと感じている。
私は、今に至るまで言葉も行動も並べて模倣することにより生きてきた。
何かを教えてもらったことはない。ただ人と同じことをすることで過ごした。
親がゲームをするのでゲームをするようになり、友人が恋人を作ったという理由で自分も作ろうとし、受験勉強のシーズンと言われればそれに乗っかって勉強した。
結婚して大学を中退して親に反発し、ここで初めて独自の生活を送るようにも思ったが、振り返ってみればその後の生活は家族に合わせているだけだ。
もともと自分の意見はなかった。ただ周りに従って生きているだけだった。

このように受動的であることが焦げ付いた習慣になっていれば、自分の言葉は生まれない。
どこかで聞いた言葉を切り貼りして日本語を話し、他人の意見を自分の意見と思い込んで述べることしかできない。

とはいえ、厳密にはすべての人間は自分の言葉など持っていない。任意に文字を取ってきて あええとぶごれんもじゃのを と言っても誰にも通じない。他人に通用する言葉は最低一度は使われたことのある言葉なのだから、自分のものではない言葉しか人間は話せない。
問題は言語の構築の方にある。言葉の組み合わせや流れのパターンは無限にある。
誰でも使えて色も見知っている鉛筆で無限通りの絵が描けるのと同じだ。
自分の言葉で話せる、とは言葉の選択と組み合わせが独自のものであることなのだ。

独自の考え方や生き方は、それまでに積み重ねた人生によってしか生まれ得ない。
独自性は受動的なままでは生まれない。形成的(これも借りた言葉)に生きなければならない。インプットとアウトプットのバランスが取れるようにしないといけない。