正義

人間は自己の正当化に大きなエネルギーを注ぐ。自己保存、自己防衛のためだ。誰だってアイデンティティがぐらつくのを好きではない。安心して平穏な日常を送りたい。
正当化には種々の方法がある。よく見られるのが、自らに権威を与えることだ。「世界一になれば他人が文句を言わなくなる」「教授であるこの私の判断が間違っているわけがない」など。虚栄心とセットになることが多い。外面的な鎧をまとって内面を隠し、権威の威光によって相手の目を曇らせる。大抵の人間はひるむが、ときどき中身を見通せる人間(賢人)や権威が見えない人間(バカ)がいるので通用しないこともある。

続く


発見、体験、解像度

自然が多い土地で育った。山がいつも見える。虫も木も川もあった。でも自然についてあまりに無知だった。自分は自然の中にいて自然を発見していなかったのだ。
山を見れば木が生えている。雲がかかっている。森に無数の生物が暮らしている。春夏秋冬で色も生物も異なる。朝と夜でも違う。雨が上がった日は緑色が映える。
これらは発見して初めて、知識や経験となる。山が物理的スペースを占めていても、それを発見しない人間にとっては存在していないことに等しい。
あらゆる物事は無限に分割することができ、視点も無限に存在する。どのような物事でも単一ではありえない。
毎日の生活の中で、どんな単純に見える物事の中にも発見があるはずだ。
ぼんやり見ているだけの世界は単純で安定しているが平板で多様性に乏しく、そこから思考も思想も生まれない。
生活を見るための解像度を上げねばならない。あらゆる物事からできるだけ多くを感じ取り、組み合せ、混合し、総括する。
材料が多くなくては思考できない。材料は多いほどよい。混ぜる技術は訓練によって体得できるが、その前提として、物事を見る目が鋭くなくてはならない。


思考と文字と訓練

ある「考え」が頭に浮かんだ。
それは何らかの思考の過程で生まれたものかもしれないし、他との関連なく天から降ってきたものかもしれない。
いずれにしても初めの段階では、その「考え」には裏付けがない。ごく直観的なものだ。なんとなく、漠然と、全体的に、感覚的に、頭脳が言葉のピースを選択して盤上のしかるべき位置を推測して置いたに過ぎない。
裏付けるためには理性の働きが必要だ。ピースの周りを言葉を尽くして埋めていかなくては、せっかくの「考え」はただ盤上で一人きりになってしまう。そのピースは位置や向きが違うかもしれない。嵌めてみたら形が合わないかもしれない。そもそも全く別のセットから持ってきたピースかもしれない。

理性の働きを頭脳の中だけで完結させるためには高度な訓練が必要だ。まず、ある「考え」の同一性を長時間保持することは困難である。頭脳内の化学物質が流動するのと同じく、思考も流動する。理性や思考を直接見ることはできないので、その同一性を検証することは難しい。
次に、思考は一次元の線上で行うものではない。同時に複数の視点から問題を見つめなければならない。二次元、三次元、場合によっては四次元以上の並列処理が必須である。これを頭脳内で行うのは至難だ。

ここで文字の出番である。文字があってこそ、思考を固定化することができ、外部化することによって容易に客観的な検証ができる。順序の入れ替えや言葉の取捨選択も楽だし、頭脳と違って時間や時空の制限もない。文字列自体は一次元だが、二次元以上の思考は前後の文章との関連性を見る、行間を読むなどの技術によって可能になる。しかも一度書いてしまえば、紙やデータを紛失しない限り、半永久的に忘れない。文字は偉大だ。文字なくして文明なし。

頭脳の中だけで明快に思考できるようになりたいものだ。