思考と文字と訓練

ある「考え」が頭に浮かんだ。
それは何らかの思考の過程で生まれたものかもしれないし、他との関連なく天から降ってきたものかもしれない。
いずれにしても初めの段階では、その「考え」には裏付けがない。ごく直観的なものだ。なんとなく、漠然と、全体的に、感覚的に、頭脳が言葉のピースを選択して盤上のしかるべき位置を推測して置いたに過ぎない。
裏付けるためには理性の働きが必要だ。ピースの周りを言葉を尽くして埋めていかなくては、せっかくの「考え」はただ盤上で一人きりになってしまう。そのピースは位置や向きが違うかもしれない。嵌めてみたら形が合わないかもしれない。そもそも全く別のセットから持ってきたピースかもしれない。

理性の働きを頭脳の中だけで完結させるためには高度な訓練が必要だ。まず、ある「考え」の同一性を長時間保持することは困難である。頭脳内の化学物質が流動するのと同じく、思考も流動する。理性や思考を直接見ることはできないので、その同一性を検証することは難しい。
次に、思考は一次元の線上で行うものではない。同時に複数の視点から問題を見つめなければならない。二次元、三次元、場合によっては四次元以上の並列処理が必須である。これを頭脳内で行うのは至難だ。

ここで文字の出番である。文字があってこそ、思考を固定化することができ、外部化することによって容易に客観的な検証ができる。順序の入れ替えや言葉の取捨選択も楽だし、頭脳と違って時間や時空の制限もない。文字列自体は一次元だが、二次元以上の思考は前後の文章との関連性を見る、行間を読むなどの技術によって可能になる。しかも一度書いてしまえば、紙やデータを紛失しない限り、半永久的に忘れない。文字は偉大だ。文字なくして文明なし。

頭脳の中だけで明快に思考できるようになりたいものだ。


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