★★★★★(๑•̀ㅂ•́)و✧
岩波ジュニア新書すごいっすね。新書ではこれが最強です。
著者の岩田靖夫さんはほんの最近(2015/1/28)に逝去された学者です。本書がヨーロッパ思想の概観書として異色なのは、ギリシャ哲学とキリスト教に全体の2/3というほとんどの紙面を割いていることです。それは著者が、西洋思想はこの2つに大きく根差していると考えているからです。
筆者は、この本の第3部でヨーロッパ哲学のわずかな、しかし重要な節目を歌った。それは華麗な大交響曲からの、筆者の好みによって選びだされた、ほんの数小節である。しかし、それで、ヨーロッパ哲学の本質は伝わると筆者は確信している。
ちなみに第3部はアウグスティヌスやトマス=アクィナスも含まれるので、キリスト以後の思想家は全体の1/4しか記載がありません。
理想的で高慢なギリシャ人
ギリシャ人は理想を追求する民族でした。ギリシャの美しい彫像はすべて同じ表情をしています。ここには、不完全なものは存在として「劣っている」という厳しく高慢な姿勢がありました。ギリシャ神話の神とは、すべて人間が理想としたものの結晶でした。これは逆に、人間を神のようなイメージに持ち上げて賛美しているともとれます。この理想の高さが、普遍的なもの、形相的なもの、理念的なものへの追求へ向かい、豊饒な哲学が生まれたと筆者は書いています。
筆者が西洋哲学の根幹の一つとして紹介しているのがパルメニデス(前515ごろ-450ごろ)の思想です。彼が到達した真理は、「存在の不滅」でした。平家物語的な流れゆきうつろいゆく存在ではなく、単一で超時間的で普遍不動な「存在」が必ず存在する、という主張です。長いですが本書で感銘を受けた所なので、引用してみます。
まず、(論理的に)必然の真理として「あるか、もしくは、あらぬか」という二者択一がある。この二者択一において、「あらぬ」という前提は、あらぬのであるから、前提自身が前提自身の成立を否定している。もちろん、「あらぬ」と発言することはできるが、そのときには無意味な発言をしているのである。ギリシア語で文字通り「あらぬことを語る」というと、「ナンセンスなことを言う」という意味の熟語になるが、無に関する発言はパルメニデスによれば、すべてこの熟語の言うとおりナンセンスなのである。
それならば、二者択一の残る項は「ある」であるが、この「ある」はたんに論理的な前提として立てられているのではなく、絶対の所与として立てられていると言ってよい。この「ある」について、パルメニデスはその誕生を求めてはならぬと言明している。なぜか。まず、「ある」が「あらぬ」(無)から生じたと考えることはできない。なぜなら、いましがた述べたように、「あらぬ」はあらぬのであって、語ることも考えることもできぬ非実在、無意味、虚妄だからである。では、「ある」は「ある」から生じたと考えうるか。否。なぜなら、そのときには、生じた「ある」は「あるでなかった」という自己矛盾が生ずるからである。
「ある」「あらぬ」が複雑に絡み合って頭の痛くなる文章ですが、論旨は明快です。私たちが「ある」「ない(あらぬ)」と日常的に表現している当たり前のような事実がひっくり返されてしまうこの文章は驚くべきものでした。あらぬことはありえない。この後は「ある」の不滅性までもが議論され、単一で不可分な「ある」で全世界がおおわれていく様子が描かれます。おそらくこれがユダヤ・キリスト教的な「神」の存在に繋がっていくのではないかと思われます。前提をどこまでもさかのぼっていける哲学者には憧れるばかりです。
自由とキリスト教
一度新約聖書を通読したというのに、私はキリスト教を絶対神に服従する窮屈な宗教と認識していました。それが大間違いであることを、前書きで突き付けられました。
キリスト教は自由と寛容の宗教でした。神は自己の似姿として人間を創造しました。キリスト教の神は唯一絶対なるものです。ということは、その似姿である人間も一人一人が唯一絶対なるものだということです。ですから、一人ひとりを何らかの普遍的な概念で繋ぐということは、許されません。それは絶対なものであるという定義に反するからです。すなわちアンチクライストとは、全体主義者です。そうか、ヨーロッパの個人主義って、ここから来てたんだ。。なんで気づかなかったんだろう。魅力的なアンチクライストにははみ出し者、個人主義者が多いように思えますが、それは教会的な社会そのものが間違ってるんだと思います。キリスト教、もっと深く知りたくなりました。
ここから、キリスト教の核である他者への愛=他者の自由の尊重のこと、ユダヤ教の偶像崇拝の禁止=自己神聖化の禁止、という思想の帰結であることが分かります。これ、今の私の最大の課題と考えていることですので、このままだとキリスト者になってしまうかもしれません。。いまのところ、無神論ですけれど。
理性=暴力、レヴィナス
最後1/4ではデカルト以後の哲学の展開が描かれますが、筆者がパワープッシュしているのはレヴィナス(1906-1995)です。彼はユダヤ人で、現象学を基礎としつつもユダヤ教の影響を強く受けています。彼の思想で衝撃的なのは理性=暴力であるという主張です。
ヨーロッパの哲学はギリシャの初端以来根本的に無神論であった、とレヴィナスは言うが、それは、ヨーロッパの哲学が基本的に理性に真理の基準をおく哲学であったからである。理性では認識しえないもの、すなわち、根本的に自己とは異質なものを認めない。理性とは同化の力であり、全体化の力であり、それによって自己を貫徹する力であるからである。
私は理性って素晴らしいと思っていました。他者からの肉体的心理的なコントロールに屈することなく、どんなに弱いものでも自ら立つことのできる唯一の力だと思っていました。しかしレヴィナスには、それは異質なものを排除する力、端的にいえば暴力であるのだと言われてしまいました。
だが、この全体化の態度は、じつは、貫徹できないのだ。それは、他者に直面するからである。他者に直面したとき、私は冷水を浴びせかけられ、無言の否定に出会い、自己満足の安らぎから引きずり出される。私の世界が完結しえないことを思い知らされるのである。もちろん、自分の思い通りにならない他者をさまざまな暴力によって排除し抹殺することはできる。しかし、そのような殺人は全体化を完成したのではなく、むしろ、全体化が不可能であったことを証しているのである。
ユダヤ教というよりはキリスト教的思想に見えます。愛、すなわち他者を尊重しなければならない裏付けが述べられています。この記述は、一生涯私を刺し続けるように感じました。人間が人間である以上、他者を完全に抹殺することは不可能と言われてしまいました。このあと、「他者は無限である」というとても跳躍しているようで本質を射抜いた展開がなされます。
さらにこの後、たまたま通りかかった道端で苦しんでいる者を見捨てなかった「善きサマリア人」を人間の本質とし、否応なく他者と関わり責任を負うことが課されているのが人間だ、だって、みんな神から作られている者なのだもの。連帯責任があるよ。というのがラストの結論ですが、さすがにここまでは同意できません。責任を創造論に回収するのはちょっと、私にはできないですね。そんなことよりも自分の生活を第一に考えてしまいます。余裕がある人が責任を負えばいいよ、私にゃ負いきれんよ、と思ってしまいます。
私は読書時に小さな付箋を使って感銘を受けた箇所に貼っていき、あとでざっと読み返したりブログの素材にしたりするのに役立てています。この本、付箋を貼った個所が20か所もありました。過去最大です。それだけ、驚かされることの多い本でした。読みにくいヨーロッパ思想書は多いですが、それはあなたの頭が悪いのではなく、著者や訳者の日本語が破壊されているんだと思います。この本は読みやすい上にびっくりすることが多い本でしたので。最初の一冊、座右の一冊、どれにするとしてもおすすめです。私も時々読み返そうと思います。
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現代人から見た新約聖書
田川建三さんは最近新約聖書の分厚い注解を出した人で、以前から興味があります。
やっぱり必読なんだって。好きなブロガーさんも読んで人生変わったと言ってるし、近いうちに読まなきゃダメか。
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