DVだったらしい

時間が経ったことですしもう一度冷静に振り返りました。今日だけ敬体をやめます。

 

・私は発達障害なので空気や状況を読まないことを言う。それは元妻の癇に障る。精神的に執拗に追い詰められ何度も自傷行為をした。自分の頭を叩いたり物を自分にぶつけたりした。自傷をしても「それは暴力だ」と言われた。確かに暴力には違いないがこの論理をもってすると自傷も責められる材料に一変した。これを回避するためにはイエスマンになるしかなかった。必死で先読みして心を文字通り砕いて肯定した。拒否権はなかった。10年以上かけて「怖い」ことが染みついた。

末期には、ブログ・ツイッター・各種書籍で学んだ知識をもとに責められても冷静に対処できるようになったがそれはそれで「あなたは人間ではない」と責められた。

・結婚に際して私の親と関係がこじれたので、私の両親兄弟親類の話題はご法度。それどころか「あのときはかばってくれなかった」「あなたはあいつら(私の親のこと)と同じだ」「○○人め(○○は私の地元の名前)」と10年以上言い続けられた。なお引っ越しを繰り返しても何回も何回も行方を追ってきた親にも問題はある。

親との関係を絶つためにペーパー離婚した。書類上はこどもの親権は全員元妻にあるので、別居してしまった以上は今後こどもに会うことはまず不可能である。

参考

ペーパー離婚後、戸籍から分離した私が親の目をくらますためにニセの住居を借りて住民票を移したり、引っ越した後に元妻側の住民票を移動しないで追跡を不可能にするなど徹底したので、医療費自費・児童手当なし・二重家賃・扶養控除ゼロとなって借金が増えた。わたしは嫌がったが罵倒され却下された。

 ・元妻には学歴コンプレックスがあるので学生時代の話もご法度(わたし社会上は高卒なのに)。つまり過去の話は全部禁止だった。「いまを生きる」といえば聞こえはいいけどそれって個人を宙に浮かせる行為じゃないの。

・生活能力がなくと他人の気持ちを読めないところから「勉強ができるくせに~はできない、勉強にしか全力出してない、私のことはどうでもいいと思ってる」とこれも最初から最後までなじられた。発達障害/自閉症を知る前から「勉強は簡単だった、生活は難しい、人を思いやるのも難しい」と何度も弁解していたが、私に診断が降りた後も評価が変わらなかった。

家事をやっても意に添わなかった場合は仕事を取り上げられた。家を出る数か月前にも、調理場の台拭きに扇風機を当てて乾かさなかったという理由で私の担当だった洗い物ができなくなった。私は物置にひきこもる生活となった。

・こどもに対して発言権が無かった。何かを教えてやろうとしたら「教育方針と違う」「今までやったことが台無しだ」「責任取って今後も教え続けられるのか」と言われた。注意が散漫だという理由でこどもの送り迎えもさせてもらえなかった。

家を出る際、情緒不安定で一番外に出る必要がある次女を引き取って学校にやろうか(当時こどもは学校に行っていなかった。今もそうだろう)と言ったが全力で拒否された。「どういうビジョンがあるの?」と言われたので「そんなのやってみないとわからん」と返した。失格となった。今となってはビジョンなんて毎日毎年変わってただろとあと知恵でツッコめるがもう遅い。

・こどもに「お父さん」「父ちゃん」「パパ」などの呼称で呼んでもらえなかった。本名と全く関連性のない通称で呼ばれていた。いまでもそう。これは私の親とこじれているので、親が付けた名前である私の本名を家から消滅させることが目的だった。通称を一定期間使うと家庭裁判所を通すことで法律的にも通称を使用することができる。家を出た後、元妻から来るメールのTo欄の名前も通称に変わった。同様の理由で、私の苗字は旧姓と違う。苗字を変えるための都合で、私は戸籍上バツ2である。

通称の指す範囲とは? – 別枠で、家庭裁判所へ申し出る改名について伺いま… – Yahoo!知恵袋

あと5年くらいで私の元の名前は日本からなくなっていたようだ。

・出かける自由が無かった。15時から夕食なので15時までに帰れない用事は一切できなかった。「家に帰るのが18時になるんだけど」「食事の後片付けができないし、暗いと蚊が入るからダメ」という具合だった。会社への出勤日に帰りが遅れると怒られた。早く帰らなければいけないのに仕事を振られると頭がうわーとなった。家に帰ることが強迫観念になった。

・「家の財布は一つ」と言われていた。私の給料は全て元妻が管理していた。払い込みなどは私の担当だったので食費や光熱費の概算はできたが、その他の詳細は知らされていなかった。

今日教えてもらった知識によれば、民法違反らしい。

民法第762条 – Wikibooks

なお現在でも養育費の相場を大幅に超える金額(数倍)を支払っている。減額を言い出したいのだけれど怖い。

 

ここからはもう少し具体的なエピソードです

 

・2008年ごろ、社会保障も昇給もない今の仕事が心配、何か資格はないかと元妻に相談したら弁理士を紹介してもらった。私は大学を中退したことの リベンジだと思って猛勉強した。ところが数年後に1次試験と2次試験を1発合格したところで罵倒され、最終の3次試験の勉強が一切できなかった。罵倒された理由は今でも覚えているが「3次試験の参考書買ってもいい?」という質問の調子がキモかったからだそうだ。「なんで私じゃないの?」とも言われた。これは(なぜアホのあなたが合格するのに頭のいい私は何にもなれないの)という意味だったと記憶している。

わたしはどうしても受かりたくて試験当日に反対を押し切って受験に向かった。今思うとこれは家を出るまでに唯一行った反抗だった。3次試験はいちばん簡単な試験だが、対策0だったので当然落ちた。帰り道に支離滅裂な反省文を書いて渡した。ばかにされた。一連の出来事は後々まで責められる種となった。

・田舎から大金をかけて都心に引っ越したけど「風呂場が汚い」と言われ、3週間で再度田舎に引っ越した。浴槽の底のひっかき傷にカビが生えていた。古い物件が多い都心ではよくあることで、毎日水を流すんだから正直どうってことないんだけど、その傷が致命的だったらしい。文句を言いたい気持ちを10秒かけて封じ込め、150万円を失った。風呂場を新調する交渉をさせられた。もちろん無理。わたしは田舎に引っ越す前日まで毎日風呂場の壁を磨いていた。

・311以降元妻の食材へのこだわりが異常になり、西日本から野菜を取り寄せるのはもちろん米も超高級品となり一時期は食費が20万を突破した。最大で月25万程度だったと思う。正確な金額は知らされていないのでわからない。30万近かった可能性もある。借金が毎月増えていくので「食費を減らしたら」といったら激怒されこの話題はご法度となった。その後、ジョコビッチの本を読んで考えを変えたらしく

ジョコビッチの生まれ変わる食事

ジョコビッチの生まれ変わる食事

 

パンをやめコメにしてさらに量を大幅に減らしたため体重が53→40kgまで落ちた。絶望した。月1しか出勤してない職場の上司にも「やせたね、大丈夫?」と心配された。飢餓になるとサーチュイン遺伝子なるものが働きエネルギー効率が良くなるらしいよ。死なないようにするための緊急機能だよ。 高級食材が嫌いになった。いま意地になって食費を減らしているのは、食費が異常に高かったことへの反動だという自覚がある。

 

 

 

よくよく振り返ってみると精神的DVだったようです。以前何を書いたか覚えていませんが渦中にいたときの記述とは温度差があると思います。

 

考察はまた後日行います。


振り返り 悪い見本

前回記事

 

当面の金の心配はなくなりましたが将来的な金の心配が持ち上がってきました。今の仕事は保守が中心で将来性が無く、技術力も大して必要としません。したがってクビになるか会社が倒産するかすれば私の就職先はありません。私は年金を払っていないので老後に年金が出ません。すると今のうちに金を貯めておかなければなりませんが、借金さえなかなか減っていきません。

今食べている食材は間違いなく分不相応です。無農薬→有機→自然栽培、最近ではグルテンフリーに乳製品無しと着実にグレードアップしてきたことを考えると後戻りは不可能でしょう。エンゲル係数は一時40%まで高騰していました。

有機野菜などのいわゆる自然食品は農薬使ってないもんねというプレミアムのついた利益率の高い食品です。経済学が言う「効用」というやつは捉えどころがなく、データで定式化することは非常に難しいですが簡潔にいえば人間がファンタジーを持つ程度の高さ、欲望の惹起度の強さだと思います。要するに幻想です。商品付加価値というものは幻想に対して人間が支払う代価なのです。確かに自然栽培の野菜はおいしいですが、3~10倍の金を支払う価値があると私にはどうしても思えなくなりました。どれだけ体に良いというものを食べたところで、食物は人間の消化管で分解されてから吸収される以上、すべての栄養素は食物内の含有量がすべてなのであって、美味しさとは関係がありません。いままでずっと思考を停止して家の方針に従ってきましたが、世の中の9割以上の人間がスーパーの野菜を食べて健康に暮らしている事実を鑑みると私は金を支払うことが急激に嫌になってきました。しかし私には発言権はありません。食事を作ってもらっている身分ですので文句は言えません。10年以上続いた方針は変えられないでしょう。私だって喜んで従ってきたんだから。

グルテンフリー導入後私の体重は10kg以上落ちました。痩せ過ぎは健康リスクがあります。コメは高級品を食べているので、量を増やしてくれと言えません。数か月前まで筋トレを欠かさず1年以上続けていましたが、栄養のインプットが減っては糖新生により筋肉を燃やすしかなく、体中の筋肉がなくなりました。私は絶望して筋トレをやめました。30回3セット出来た腕立て伏せは1回もできなくなりました。自然食品は年収1000万円以上の人だけが買えばいいと思う。

お金を貯めたい。自分が食べたいものを食べたい。

 

TLでふと目がついたツイートを流用して恐縮ですが、こんなことは日常茶飯事です。Kは親譲りの完璧な生活習慣の持ち主でしたが、私はダメダメな親譲りのダメダメな生活習慣の持ち主で、しかも自へスぺ(自閉症スペクトラムを略してみました)のせいで短期記憶と動作性が極端に悪いです。

まず忘れ物。私は学校時代にほぼ毎日忘れ物をしました。どれだけ注意しても1つは物を忘れていきます。いまでも教科書が足りない夢をしょっちゅう見ます。私は今までに傘を電車や電話ボックスやコンビニなど5カ所に置き忘れ、Kに貰った時計を電車に置き忘れ、通帳一式を大学のベンチに置き忘れ(これは後日見つかった)ました。

また物をよく壊しました。Kの大事な実印を落として欠けさせたり、Kの本を借りて読んでいたらカバーを破損したり、Kに貰った靴を数か月でボロボロにしたり、洗い物をしていたら食器をぶつけて欠けさせたり割ったり、責められてパニックになった時にお茶の保温ポットを頭にぶつけて壊したりしました。私は物を大事にできません。なくすし、壊します。何回も悲しい思いをさせました。

言われたとおりに動けないし、指示を覚えられないし、歩き方は変だし、何もかもが怒られる種になりました。私はどれも直そうと努力したし、できなかったことを書きつられなノートが5冊にもなりました。しかし10年かけて何も治りませんでした。すべては無駄でした。努力の方向が間違っていたからです。

しかし怒られているうちはまだよかったのです。今年に入ってKが怒ることをやめました。すると会話が無くなりました。私には重要な話題を振らなくなりました。大事なことはすべてα(長子)と相談するようになりました。私は空白になりました。β、γとも私はほとんど関わらなくなっていきました。γに「ああなってはいけないよ」と言うのも聞きました。私は悪い見本です。でも本当のことを言っています。私だってこどもに自分のようになってほしくありません。存分に反面教師にしてほしいと思っています。

中学の同級生に、父が無職で母の稼ぎだけで暮らしている家の子がいました。彼は無気力な父を憎んでいました。彼は中学でも高校でも生徒会長になり、高潔な人間になりました。北海道で農業をやって家族を呼び寄せたいと言っていましたが、あの夢はかなったでしょうか。父がダメ人間で、かつ父に反抗する心があれば、人間は強くなります。彼のようになってくれればよいです。

Kは私に世間一般でいう愛がなかったことも見抜いていました。私にはふつうの人間のように家族を守るという義憤はありません。キチガイ親の脅威から家族を守ろうと心の底では思っていませんでした。それどころか今では同情の気持ちすらあります。父は私の欠陥を濃縮させたような人間でした。空気は全く読まないし、親らしいことをしてもらった記憶はありません。私と同じように、親になろうとしても、なれない人間だったのでしょう。私には親がいなかったのです。

半面、Kには母性も父性も備わっています。正直なところ、この10数年間は私にとって家族体験のやり直しに近い意義を持っていたと感じています。Kが親で私は子供です。子供にこどもが育てられるわけありません。ロールプレイとして、α、βの親として各地で振る舞ったことはあります。それなりに役割は果たしましたが、αがクソのような教師に攻撃されたときは全く防御してやれなかったし、これまた私の悪いところを濃縮したようなβをどう育てたらよいか、私からは何の提案をすることもできませんでした。親としての実質の機能はありませんでした。

私はこどもにとってよつばとのジャンボとかみなみけのタケルおじさんのようなポジションだと思います。私がいなくなっても、致命的な穴にはなりません。家に入り浸っていたおじさんがいなくなったかな、というくらいのものでしょう。図らずもとある教師を引退したベテランがこどもを見て「父親の存在が全く見えない」と言ったそうです。その通り。よくわかってるね。

私はつかれたので、出ていくとKに告げました。やっぱりね、という反応でした。

 

後向きな内省はこれで終わりにして、明日からは今後どうやって生きていくかについてエネルギーの方向を切り替えようと思います。振り返りはこれで終わりです。


振り返り 地元、試験、袋小路、親、引っ越し

前回記事

 

私が地元に予告もせず押しかけ追跡の中止を求めると「当然のことをしている」と全く悪びれないどころか久しぶりに顔を見られてうれしいという始末でこちらもやる気がなくなりました。私の怒りは借り物に過ぎませんでした。いままで親絡みのトラブルがあっても私はKの言うままに母を駅まで連れていって置き去りにしたり自発性がありませんでした。本来なら不正入手(法的には不正ではない)した住民票を奪い取ってくるくらいのことはしなきゃならなかったのでしょうけれど私は不徹底のまま新幹線代を浪費しただけで帰りました。後々まで責められる種になりました。

私達は結婚後Kの両親とも交際を絶っていましたが、たまたま親類に出した年賀状の住所を見たKの両親から連絡があったので私たちはKの実家付近に住むことになりました。

この頃Kが紹介してくれた弁理士試験を受けました。私は結晶性知能検査が得意だったようで、1次試験と2次試験を一発で突破しました。1次試験の多肢選択式はもとより、2次試験の論文試験は文章を書くものなので難しいと決めてかかっていましたが、問題集の模範答案を要約しながら100問書き写したら合格しました。残すは3次試験の口頭試問のみとなりました。

しかし2次試験後の私の言動がキモかったという理由でKに受験を禁止されました。私は弁理士試験を大学を辞めたリベンジだと思っていました。中退後数年が経ち同期の人間はみな就職しています。いつまでもバイトのみの私には相当の劣等感がありました。これを克服するため受験勉強を再開したようなものです。私の優越感が復活したのをKが見て取ったのでしょう。私は勉強を放棄せざるを得ませんでした。

しかし私はあきらめきれず勉強ゼロで3次試験の受験に強行しました。もちろん惨敗でした。何を思ったか私は支離滅裂な反省文を書き、家族に呆れられました。

ひょんなことから猫を拾い、出費が増えました。ペット可の物件にしか住めなくなったので、選択肢が大幅に狭まり出費が増えました。私はまた労働時間を増やしました。

もともと有機野菜などを食べていましたが、これをさらにグレードアップした自然栽培野菜を食べることになり、こどもも大きくなってさらに出費が増えました。私はさらに労働時間を増やしました。私は労働基準法の適用対象外ですが、通常の労働時間で言うとだいたい残業月100時間分に相当すると思います。月に1度しか東京に行かなくなった上に自由時間もほとんどないので、アーケードゲームをプレイすることはなくなりました。プレイ終了時はDDR(DP LV16相当)もIIDX(DP LV10~11相当)もポップンミュージック(LV47相当)も上級者レベルに達していました。

出費が大幅に増えたので身動きできないまま数年が過ぎました。一昨年のことです、親からまたも追手が来ました。Kの両親から電話がありました。不審な人物がタバコ屋に電話し、Kの両親の所在を聞いた。それを親切なタバコ屋がKの両親に連絡してくれたそうです。電話した人間の名を聞くと私の親でした。がっくりきました。一体どうやって調べたのやら。親に問いただすと、私を直接探すと引越しなければいけなくなって迷惑がかかるから、Kの親に私が元気か聞きたかったというのです。信じがたい話です。普通の人間ならKの親に脅迫する目的だと思うでしょう。だいたい探偵まがいのことをしている方が迷惑です。

でも今では親の思考方法が見えます。本当に悪意が無かったのでしょう。私以外の人間をカボチャかジャガイモかパイナップルだと思っているだけなのです。人間性の否定こそ私の親類の本質です。人間性が失われている家庭に育った私は人間性が欠けていて当然です。

住民票の取得履歴を自治体に問いあわせてみたら、弁護士の名前で戸籍が抜かれていました。親が弁護士に依頼して取得したことは明らかです。防衛のため、形式的にKと離婚して戸籍を分けました。離婚結婚は私が親の苗字を捨てる目的で一度行っているので特に抵抗はありませんでした。

去年、こどもの学習環境のためにと勇気を出して借金し東京に引っ越しました。ところが風呂が汚いという理由でまた引っ越すことになりました。私はがっくりしました。100万円超+次の引っ越し代をドブに捨てたことになります。私は風呂が気にならなかったのに。ここで溜まった借金は現時点、まだ返済できていません。

引っ越し後あまり借金も減らないまま、さらに私の月給が大幅に減るかもしれない事態に陥りました。いまではその心配はなくなりましたが、この出来事が私を大きく変えました。私は金を貯めるための方法を大急ぎで調べました。アフィリエイトブログを読み漁り、大量に本を借りて勉強し始めました。JavaScript、PHP、HTML5+CSSと株式投資の知識がつきました。はてなブログに投稿を増やして書籍レビューも書くようになったのはこの頃です。

心配がなくなってくると関心は自閉症や歴史、哲学、経済、食物などに向かいました。自閉症については診断後もほとんど調べることはありませんでしたが、はじめて読書の習慣がついた私は考えが変わっていきました。

 

続きます。ここ6年くらいは部屋に引きこもってほとんど仕事しかしてこなかったので、時間の割にあまり書くことがありませんでした。


幻想について

ちょっと脱線します

 

 

面白い記事でした。

はてなブログに移行して半年程度、記事を書く前に表示されるトップページには注目記事が表示され、恋愛工学などモテ関連の話題がしばしば上位に上がります。その中でも私は「男らしさ」「女らしさ」という共同幻想を相対化する記事に目が行くようになりました。日本人は概して同質性を好み異端を排除するが、彼らは言葉の力を使って同質性の圧力を無力に変えてしまう方法をとって抗う人たちでした。

私は「男らしさ」を要求されていました。Kの父は典型的な明治型父権の人でしたから、私にも同様の要求がありました。しかしKはその父を乗り越えた存在でしたので、私よりも父性が強いです。私の父は父性?男らしさ?なにそれ?という人間だったため私にロールモデルは存在しませんでした。私は「男らしさ」についての圧力を苦にしたこともありませんでしたし、アムロが「だって僕は男なんだから」と独白しても何の気持ちも湧いてきません。むしろアスペルガー(自閉症スペクトラム)の診断が降りてからは、「人間らしさ」という全人類から受ける圧力に苦しんできたことの方が大きいです。自閉症が脳の気質由来の新しい思考のありかただという動きがありますが、私は親近感をおぼえつつも連帯感を持つことには違和感を抱いています。明確に言語化できなくてもどかしい。言語を自在に操れる人間ってバケモノじゃないの。わたしゃ他人の思考のつぎはぎしかできないっちゅうのに。

私は10年以上周囲の圧力に対応できるように奮闘してきたつもりでしたが、何も進歩しませんでした。すべての努力は方向が間違っており、無駄でした。死ぬまで未成熟のまま、男らしさも人間らしさも身につけることなく年を重ねるでしょう。はてこさんの記事は物語による救済をテーマにしていますが、私は物語が、形を変えた圧力になるとしか思えません。それは自分に適した物語を私が見つけていないだけなのかもしれません。幻想の効用は認めます。今後も私はファンタジーを探して様々な本を読み続けることでしょう。しかしそれはいろんな人間が何を考えているか知りたいという純粋な興味からであって、自分を救うかもしれないとは期待していません。私はもう疲れました。幻想に自らを従える意味が分かりません。それは自分じゃない。もうこんな不毛な階段から降りたい。


振り返り 借金生活~引越生活

前回記事

 

 

お金が無くなったのでキャッシングで生きることにしました。Kはバブル期に大量に作ることができたキャッシングカードを持っていました。私はプログラマーのバイトの口を見つけ、収入が増えました。しかし大学はあきらめられず、次の学期も授業料免除を申請して通いました。やはり単位は楽勝で取れました。ふつうならキャッシングなどせず働くべきだったとは思います。ここで大学に固執してどうする。

生活にはカネがかかるもので、1年間で借金は300万円近くまで膨れ上がりました。私が以前バイトしていた法律事務所は破産専門の事務所で、そこでの経験から破産はちょろいことが分かっていました。書類は定型文にちょいと文章を入れるだけ、弁護士は下働きが作った書類を週に1回裁判所に抱えて持っていくだけです。破産開始通知者が債権者に渡ると弁護士パワーが伝わり債権者は訴訟を一瞬で取り下げます。弁護士はヒマなのかスケジュールに「キックボクシング」などと堂々と入っていました。

お前らのことです。

私はバイトをやめる前に書類をコピーしてきていたので、これと書籍を参考にして完璧な破産書類を作り、印紙代だけで借金をチャラにすることができました。

もう潮時だと思って大学を辞め、バイトに専念することにしました。給料も上がり、3人家族なら十分暮らしていけるだけのカネを稼ぐことができるようになりました。今でも勤務先は同じです。

βが生まれました。私は家事がまともにできないので、産後一週間もせずに退院したKが授乳からオムツ替え、家事まですべて行いました。私ができるのは食器洗いくらいでした。出産祝い金は破産でカバーの出来ない保険料の未払い分に全額消えました。

親からは嫌がらせがひどいので、引っ越しました。具体的には、東京まで出てきて家の前で大声を上げられたり、手紙が頻繁に来たり、Kの悪口を書いたビラを撒いたりされました。引っ越し資金を借りようとまだ問題になっていない振り込め詐欺の被害にも会いました。荷物が多く初期費用も掛かるファミリーの引っ越しには100万円ほどかかります。しかし私が選んだ物件は失敗で、また引っ越しました。この頃から私は引っ越しのために働くような生活をつづけることとなりました。必要な金が増えたので、労働時間を増やしました。

音ゲーは未だに中毒状態から脱しておらず、主にDDRの腕前が上がる一方でした。音ゲーはキャッシング生活時も続けていました。借金してもパチンコがやめられない人間の心理と同じだと思います。

私とKはよくケンカしました。喧嘩と言っても、私が一方的に怒鳴られました。Kは家庭の事情もあり理路整然と相手を叩きのめす能力に優れており、かたや私はケンカの経験はゼロ、一方的に言葉で殴りつけられるだけです。しかも全てが正しいので言い返す余地もありません。原因はキチガイの親を放置したことや、私が過去に家族や他の女の自慢をしたことですので自業自得です。私にできることといったら、否定されることの怒りを相手にぶつけることもできないので自分を殴りつけたり、電気ポットで自分の頭を殴って壊してみたり、支離滅裂に逆ギレしたりすることだけでした。私は他人の気持ちを読む、すなわち相手が何をしてほしいか、どんな言葉をかけてほしいか全く予想ができない人間でしたので、必ず期待と異なる返事や反応をしてしまい、Kが怒ります。そんなことが10年以上も続きました。私は濃密なコミュニケーションの経験が無かった(不可能だったのかもしれません)ので、言語的能力と精神的発達が遅れており、彼女に大人の対応をすることはできませんでした。自分を殺し、自分の意見を言わず、Kが言うとおりに生きる以外の選択肢はありませんでした。

2年後にγが生まれました。このころ、NHKでアスペルガー障害の特集を放送していたので試聴してみると、話し方や言葉から染み出る自意識が自分にそっくりであると感じました。しかし家族はだれも気付かなかったそうです。この番組ではじめて自閉症やアスペルガー症候群について知りました。当てはめてみると、まんま私です。医者にかかったら何の疑いもなく診断がおりました。

すぐに近隣住民とタバコの煙で揉め、引っ越すこととなりました。引っ越し先は多摩ニュータウン。次の記事を書いた頃です。

年末に親から手紙が来ました。弁護士と親の特権を使って住民票を調べたそうです。「どこにいても見つけてやる」と脅迫まがいの文章でした。何年たってもキチガイは変わりません。私はやむなく、実家に行って今度こそ息の根を止めてくる役目を負うこととなりました。

 

続きます。

 


振り返り 21歳(2)

前回記事

 

 

ここから先はどこまでオープンにすればよいのか判断がつきかねますが、自分のためなので、おおむね事実を書きます。

Kとは話が合い、そのまま交際することとなりました。しかし私はこの時に限ってトーダイ生であること(勉強についていけなくなったのに)や素晴らしい合唱部にいたこと、先輩も頭がよく尊敬していること(いやな思いもいっぱいしたのに)、Dさんという彼女がいたこと(2週間で捨てられたのに)、親兄弟も優秀(後述するように、キチガイでした)などと吹聴しました。もちろんKは激怒し、長期間これをネタに怒られたものです。今でも怒ってるかも。

最近になるまで分かっていなかったことなのですが、愛とは他人を飲み込むものです。私は他人を欲していながら、自己同一性を保ちたいという相反した気持ちを抱えていたと推測されます。必要以上に自慢をしました。自分はこんなにすごいんだぞと言いたい、でも自分の中には何もないから、他人を使って自慢する典型的なアホの思考です。しかも認知の歪みによって、嫌だったはずのことがみな美化されている。思い出してみると不可解です。なんであんなことをしたのか。他人事のような文体なのですがあの時期は心が衰弱しておりどのような思考体系だったのか思い出すことが難しいのです。あと知恵で考えると、バイトは長続きしそうでしたし社会との接点もあったので、長い目で見てそのままの生活を続けていればよかったとも思います。

ラグナロクオンラインは役割を終えつつありました。私はもうこのゲームをやめなければいけない時期に差し掛かっていたので、BOTを使ってアイテムを荒稼ぎし、RMTで他人に売りつけるということを行っていました。これまでに支払った金額分くらいは取り戻すことができました。しかしKとのデートを「今日ギルド戦があるから」と言って途中で切り上げるようなこともしていました。離れたいけど未練のある状態でした。余ったゲーム内通貨はラグナロクを紹介してくれた高専生のI君に上げました。RMT相場で5000円相当くらいだったと記憶しています。

Kはシングルマザーで頭の切れる女性でしたが、訳あってギリギリの生活をしていました。私はその頃金がない金がないと言っていたそうです(記憶がない)。そこでKは同居と入籍を提案しました。私は住居費が無くなり、Kは税金が減るからです。私は驚きましたがなんだか壁を飛び越えた世界に移行できる気がして、少し悩んだ後賛成しました。

夏に単身帰省し、親に事情を話すと猛反対されました。何度も何度もKと別れるよう説得されました。私はこれ以上話しても無駄だと思い、同意したふりをして実家を後にしました。

Kのすすめでパキシルをやめることにしました。禁断症状は激しく、頭の中が目まいの起きた状態と同じようになります。かなり苦しいですが希死念慮が起きることは全くなく、数か月すると禁断症状はおさまりました。抗鬱病薬は大多数の人間にとって依存性を高めるだけの薬だと今でも信じています。よく調べると麻薬とほぼ同じ働きをすることも分かりました。私はパキシルを飲むことで精神状態はむしろ悪化しました。グラクソスミスクラインの懐を温めるだけとなりました。

秋以降、私はバイト先を家庭教師、法律事務所と点々としつつ、1年遅れの2学期の授業に出ました。なんと楽勝で単位を獲得できました。しかも高得点で。私がつまづいていたのはモテ願望やお粗末な生活習慣などというごく些末なことであり、落ちついていれば簡単にこなせる程度のことだったのでした。

しかしこの頃Kが妊娠し、雇用主から減給と時短を強制されます。嫌がらせもうけていたようです。たぶん、雇用主はKが好きだったのでしょう。Kは退職することとなり、収入は0となりました。同じ時期、私がうけていた奨学金が止まりました。留年したことが日本学生支援機構にばれたからです。

さらに悪いことに親はキチガイでした。私は一緒に暮らしていて気が付きませんでした。というより、私もキチガイだったのでしょう。親はKと私の関係を一切認めず、子供も産むなと言いました。執拗に自宅に電話をかけ続けてきました。母が東京まで乗り込んできたりもしました。何とか追い払いましたが、ここで私が煮え切らない態度をとったので、Kとα(連れ子です。親はαの人権も認めていません)と私との間に禍根を残すこととなりました。こんなキチガイからの仕送りを当てにするのは間違っているので、通帳とカードを実家に郵送し、収入源は私のバイト代5万円だけとなりました。家賃も払えません。

 

続きます。


振り返り 21歳(1)

前回記事

 

ラグナロク漬けになって半年経ち操作やルールにも慣れ、上級職に転職することができました。サークルは綺麗ごとばかりで嫌になってきたことと会計の役職を押し付けられそうになったことから、春の合宿に参加したのを最後に疎遠になりました。試験期間が過ぎ、半年分単位を丸々落としたので留年は確実です。しかし留年する仲間もいました。大学には時々通っていたので社会との接点が完全になくなっていたわけではありませんでした。同じ県出身のJ君は天文部の部長で、なんと小学校の時私が受けさせられるはずだった私立小中一貫校の出身でした。同じクラスになったことから出会い、田舎者同士気が合いうちとけ、気が付くと一緒に留年していました。

私はモテ野郎共の呪縛から逃れられず、この頃は出会い系サイトに手を出していました。サクラだらけのあれです。向精神薬のせい、単に世間知らずだっただけ、空気読めないのが高じた、色々と組み合わさって私にはサクラと判断する能力もなく、8万円ほどサイトに注ぎ込みました。もちろん親のカネです。さみしい人間の毒々しいパワーは資本主義でも実証されていて、多種多様な集金システムが開発されています。東証一部出会い系上場企業の6071IBJなんか直近かなり調整したというのに未だにPER34.7倍(日本株平均の2倍以上の株価という意味です)を保っていますよおそろしい。

全く満たされない私は新学期の授業にも数回出ただけでまたひきこもりました。しかしよくよく考えると、授業についていけない人間は大学内に多数いたはずなのです。学内では、授業毎の単位の取りやすさを研究しているアホな団体がいてその出版物はみんな持っていましたし、クラス単位で人員が決まっているはずの必修授業に出ると必ず見慣れない人間が10人はいました。彼らは単位を落としたため再履修した人間だったのです。また大学のクラスとはいわば互助会で、試験対策を各科目ごとに割り振ってレジュメを作ったりして他のメンバーに役立てる組織でした。つまり私と同じように能力不足を単調作業の力で克服して入学した人間も大勢いたはずで、彼らの真似をすればよかっただけだったのです。何も引きこもることはなかった。ただ精神が安定していさえすればよかったのです。

またも大学に行かなくなりましたがいい加減家にばかりいるのはまずいと考え、クラスで何度か話題に出ていた東京個別指導学院に空手でフラフラと歩いていってその場でバイトの志願をしました。人生初バイトです。マックやコンビニは無理だが勉強系なら大丈夫だろうという見込みでした。エントリーシートの「自分の欠点」のところに「コミュニケーションが苦手」と正直に書いたら室長に「正直に書いちゃあだめだよ」と諭されました。一緒に受けた学力テストの点数はよかったので採用されました。

時給は900円と悪くありませんでしたが、一日の報告である日報や生徒別のスケジュール作成、夏期講習前には綿密な学習計画作成など時間外労働が多く、実質の時給は500円くらいでした。ブラックです。東京個別指導学院略してTKGは研修会などでバイトを感動させ帰属意識を高めてブラックぶりを隠す典型的な企業でした。しかし仕事はやってみると案外できるものでした。労働という向こう側の世界がこちら側になりつつありました。週3回の拘束で月給は約3万円でした。

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TKGは3倍バガーですね。ベネッセ傘下になってから勢いづいています。前述のJ君は私に続いてTKGに入り、塾業界が気に入ったのかこの前名前で検索したら湘南ゼミナールの名物講師になっていました。J君はもし心当たりがあれば連絡ください。

8万円損して懲りた私は一切金が発生しない出会い系サービスにも入会します。メールのやり取りに1円もかからないサイトを選んでメッセージを送り続けました。そこで出会ったのが元妻のKです。今後はKと呼称します。夏目漱石のこころとは違います。Kとの出会いにより私の人生は思わぬ方向に進むこととなりました。


振り返り 20歳

11/26 トーダイに書き換えました

11/29 Hさんの言及を忘れていたので加筆

 

前回記事

 

トーダイに入った私は増長しました。周りもみんな増長していました。開成とか麻布とかトーダイに行ってアタリマエの人間を除くと、トーダイは地方の自称トップ高からぽつぽつと出てきた人間が多いところです。駒場は歩いて渋谷に行ける場所ですので、初めて見る金が川のように流れる場所である都会も自意識を肥大させる一因となります。「俺はトーダイなのに~しちゃうもんね~」という思いで、全裸で噴水に入る、公園ででかい花火をぶっ放す、ひたすら酒を飲ませたり飲んだりするとかそんなことに夢中になります。高校3年間、人によっては中学受験から9年間我慢してきたことを爆発させる場でもあったでしょう。駒場祭という秋に行われるイベントは自意識の塊でひどいですよ。彼らがキモイのは、バランスよく脳を発達させてこなかったからだと思います。もちろん私もそうでした。年を取って経験を積んでいくと50歳くらいで随分とキモくなくなるようです。

私はインカレの混声合唱団に入りました。同じ高校の先輩から男声合唱団に誘われましたが、別の部に入ってしまいました。もちろん下心からです。先輩ごめんなさい。

大学に入ると授業についていくのがきつくなりました。何故なら講義では問題演習をせず、延々と論理展開をしていくだけだからです。問題を解いて、その手続きを記憶することを繰り返してきた私にとっては「新しい概念」が苦手だったのです。受験勉強とは必ず学習指導要領の範囲内の問題が出題されます。その範囲は、非常に狭いものです。大学で習うことの一部分を取り入れる場合は、必ずヒントがつきます。音ゲーの類似ばかりで恐縮しますが、音ゲーはせいぜい10のボタンくらいしか使用しません。10のボタンの範囲を組み合わせる方法は限界があるため、視覚と反射のサイクルを自動化することができます。あれと似たような頭の使い方をしていたため、ボタンが20、30とあれよあれよと増えていく大学の講義は苦しいものでした。私は数学も物理も何もわかっていなかったことを突き付けられました。比較的簡単なはずの相対論や記号論理学の授業はすぐ挫折し、講義に出なくなりました。

講義は一方通行ですから分からなくても後戻りができません。今思うと、私には講義は向いていません。受験勉強時代、最も成績が良かったのは唯一予備校の授業をサボって問題集で自習していた物理でした。講義は人のペースですが、自学は自分のペースでできるからです。他人のペースに合わせることほど苦痛なことはありません。宿題ができなかったのも、自分のペースと合わない量・質の課題を押し付けられるからだと考えています。

同じ高校から上がった女子が時々恋愛相談に来ました。Dさんとします。DさんはE君が好きなんだけどつれない。そうかいそうかい。ラブひなの成瀬川に彼女を重ね合わせていた私にとって受験勉強のモチベーションでした。ある日DさんはとうとうE君に振られてしまった。これを好機と考えた私は傷心のタイミングで彼女に告白しOKを貰いました。告白って変な制度ですよね。中高大学生の皆さんにとってこれが一大イベントであるのは

  • つまんねぇ日常から非日常に移るための区切り、けじめとしての意味
  • OKなら持続的な多幸感、キャンセルなら不幸のどん底というハイリスクハイリターンな投機的ドキドキ感
  • 「告白」という単語の含むなんとなく重大な気がする雰囲気

これらが「告白」という商品の魅力を高める要素だと思います。みなさん入学式とか卒業式とかああいう儀式めいたもの好きですよね。ラノベやアニメは学園モノが多く、必ず「式」が一つの場となってイベントが発生します。みんなで協力して出すあの荘厳っぽいような雰囲気。一人一人がそれに同調しなければいけないような圧力。これと同じように「告白」という儀式も国民の皆さんの協力によって成り立つ共通了解的な儀式なのです。だってバカ臭くないですか?「好きです」って言葉がどうして呪文のような効果を持つのですか。別にそんな段階踏まなくてもいいんちゃう?

とは当時の私が思っているわけもなく、ただ周りの人間の真似をすることしか生きるすべがなかったので、やはりこの手続きを踏むことにしたのでした。そして、彼女は2週間後に「やっぱりE君が好きだから」と言って去っていきました。私は2週間分の現実逃避に使われただけだったようです。Dさんは1か月前くらいにはてなブログの「こんなブログもあります」の所に偶然見慣れた顔+実名で出てきてギョッとしたこともあるのでぼかして書いてますが、幸い、ここは弱小ブログなのでばれることはないでしょう。元気でやっているようです。へこむので中身は見ていません。

ダメージを受けた私は合唱団に精を出しますが、やはりそこで知り合った女子から恋愛相談を受けるのでした。Fさんとします。私の方も毎日Dさんの相談を持ち掛けていたからギブ&テイクではありました。FさんはG先輩が好きでした。そうかいそうかい。G先輩は私のパートの先輩でしかも私の志望学部に所属していたのでよく話す間柄でした。合唱団にはサークル恒例のイベント夏合宿がありますがそこでFさんとG先輩がいつのまにか相思相愛になっていましたよかったね。あれ?よかったのかな。

すっきりしない気分のまま夏合宿が終わり、元演劇部とバレたことが原因で参加させられたサークルの別動隊、子どものために歌や劇を上演する20人程度のサブユニットの活動が始まりました。FさんもG先輩も参加していました。そこはたまたまHさんの地元でした。ある夜にHさんは「6君ってFさんのことよくわかってるよね」というのです。私の名前を仮に6としました。何だーすっきりしないのは私Fさんが気になってたからなのねーっておいマジか。そりゃまいったな。若さというのは、思い込みを殊の外大きなエネルギーに変換しがちなものです。私はブラックホールの中にでも入ったような気分になり、枕の中に潜って出てこなくなるなどの奇行を繰り返しつつ、無駄に心を傷つけながら公演を終えました。そもそも元演劇部っつったって演技が得意なわけじゃないし、人前に出ることは超苦手なのだから二重にストレスがかかって本当につらい公演でした。Fさんはその後部活をやめましたが、実は一家が全員音楽人だったり会社経営してたり異世界の金持ちだったので、もう人生が交差することはないと思います。

Hさんは後に私を突然呼び出してサークルの愚痴を言ったり(私が役職についたのにサークルを抜け出したからだと思う)、私の結婚時に一人だけ口調が変だったので何か気持ちを抱いていたのではないかと思っていますが、その後名前で検索をかけて見たら地元に帰って教師になってしまったようなので確かめるすべはありません。

半年の間に疲弊した私を待っていたのはフランス語で「不可」を取ったことでした。トーダイには進学振り分けという制度があり、学科平均点が高くないと3年生以降に希望の学部に進めません。私の志望学部はそこそこ平均点が高く、必修科目の外国語の点数が低いと進学にかなり不利です。 2学期以降大幅に巻き返す必要がありました。

フランス語教養課程文法中心学習 1 (トレーニングペーパー)

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私はこいつを購入して死ぬ思いで復習しました。すると熱が出ました。

もともと体力がない上に自炊もサボりがちで半年間適当に食事していたツケがたまったのでしょう。2週間寝込むハメになり学習が大幅に遅れました。

私は中高のときしばしば仮病で学校をずる休みしました。だいたい月1度くらいの頻度だったと思います。学校というシステムは、自分のリズムとは関係なく一定のビートを押し付けるものです。位相がずれたリズムは疲労のもととなり、時々リセットする必要がありました。

2年間の集中した受験勉強で疲弊した後に新しい環境、人間関係の破綻、慣れない公演、体力の低下と学習リズムへの不適応で休む暇もなかったのでしょう。ここでなにもやる気が起こらなくなりました。高騰した株価は必ず急落するように、増長した気持ちは極度の劣等感に変わるものです。

私は学校に行くのをやめました。そういえば地元の友達I君がラグナロクオンラインの話ばかりしていたことを思い出しました。

I君にはネトゲは人生食いつぶすからやめなよ、と言いつつも内心気になっていたゲームなので、試しに初めて見るとみるみるハマってしまいました。このあと1年ほど私はラグナ廃人となります。持ちキャラはアサシンとプリースト。アサシンは金を稼がないと成長限界が来るので途中であきらめ、プリーストを使ってパーティーで経験値を稼ぐ作業をずっと続けていました。食事は学食よりもさらにグレードを落としてコンビニ弁当で固定です。いまでもあのサンクスとハンバーグ弁当は覚えています。I君は高専生だったので、ラグナ廃人でも教授のプッシュの力でトヨタの関連会社にねじ込まれたそうです。ずるい。あ、でも奇跡的にこのブログ見ていたら連絡ください。

最新版 「うつ」を治す (PHP新書)

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こんな生活をしていると根本的にむなしいので、上の本(改定前)に騙されてパキシルも飲み始めました。パキシルは酒と相性が悪いのですが、私はやけくそでわざと酒と同時に飲んで酩酊状態を楽しむこともしていました。寂しいので一人ではやりません。必ず宴会などの席でやりました。この頃はわざと変なことをして他人の注意を引く行動がピークに達していたようにも思います。抗鬱薬は本当に必要な人に投与するもので、私のように病名が欲しくて行った人間に投与するものではありません。

医者には親にも報告しろと言われたので地元から親が出てきました。年末~正月は地元で過ごし、成人式に出て地元の友人に会ったりもしましたが、居心地が悪くまた東京に一人で戻ってラグナロクをして過ごしました。私はバイトをしてなかったので親のカネです。バイトとは見知らぬ人間と関わることですので、初対面に弱い私にとって世界の向こう側の存在でした。高校でバイトやってる人間ってどんな超人なんだよ!?と思っていました。

音ゲーも大学に入って以来再開したので、あちこちのゲーセンを行脚したりもしていました。このころポップンミュージックも始め、レベル44(当時は38)くらいまではこなせるようになっていました。もちろん親のカネです。そんな風にして音ゲーとラグナロク漬けのまま春が来ます。眠くなってきたので次回に続きます。ちょっと勢いで書きすぎたので、あとでもう少し考察を入れるかもしれません。

 

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振り返り 高3~浪人

11/26 トーダイに書き換えました

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3年生になり私は兼部していたパソコン部の部長をやらされることになりました。肩書だけの存在で私は演劇部の活動がメインでした。しかし部長として新入部員にスピーチしろと言われたときは困りました。私は人の前で話をすることなんてできません。じゃあ演劇は何だと言われたらあれはアドリブのいらない自動機械だから全然違うと答えます。本当は演劇こそアドリブの必要な世界なんですが私にはそんなことできませんので、何が起きようと同じバターンの中にとどまります。人前で話すなんてアドリブだけで構成されているようなもんです。無理です。私はその日学校をサボりました。副部長が代わりにスピーチしてくれたそうです。ごめんね。

サボるといえば私は定期テストを時々サボりました。なぜかというと定期テストは同時に宿題が出るものだからです。宿題が終わっていないのにテストができるわけがないので休みました。

夏に部活が終了し、残すは大学受験だけとなりました。私は中学校のときと同様に宿題を全然やらなかったので、宿題が試験範囲である定期テストこそ相変わらず壊滅状態でしたが、模試の成績は何故か悪くありませんでした。今考えると、これは受験勉強の出題パターンにたまたま私が適合していただけに過ぎません。意味が分からなくても点が取れていたからです。そこに部活の顧問が目を付けました。

「お前トーダイ受けろ」

アホちゃうか。わたしゃ地元の工業大学がいいとこだと思ってましたが、高望みして東京にある某工業大の情報科を受けようかなと考えていた所でした。それでもっと上を受けろと。アホちゃうか。

でも期待されたことがうれしくて勉強を始めてみたら、2年生終盤時点で800点満点の500点からはじまったセンター模試の点数が受けるたびに30点ずつ上がり、センター試験本番では660点になりました。私大も受かりました。勢いに乗って私大の入学金は払わず二次試験は前期後期とも東大にしましたが前期は自己採点3点差の首の皮一枚で落ち、後期試験はボロボロで落ちました。後期試験会場の医学部校舎のエビみたいな薬品の匂いは今でも覚えています。

予備校に入って浪人しました。公立上位の高校は浪人率が高いので抵抗はありませんでした。同じ中学高校だった3人でいつも行動していました。このうちの1人が読書家で、彼がダンテの「神曲」を読んでいたことを今でも覚えています。彼のおかげで私の中に「読書しなきゃいかんな」という感覚が培われました。ですがそれを実践に移すまで12年かかりました。名前で検索してみたら彼は気象庁に入ったようです。

恥ずかしい話ですが私が当時読んでいた漫画はこれです。

読んだ方は知っていると思いますがこれはトーダイに行く萌え漫画です。またオタク方面に戻っていた私はこれを読んでモチベーションを上げました。

予備校は月~金までみっちり授業が詰まり土日がほとんど模試で潰れるので休む暇は少なかったものの、時々名古屋の図書館に通ってシンセサイザーの本に感銘を受けたり駅ビルの大型書店に入って感動したりできました。成績が良かったので学費は半額になりました。最終的にセンター試験は9割を超え、二次試験は合格者平均点を上回りました。

受験勉強は大部分が暗記と手続き学習で構成されています。私にもってこいの分野でした。ただひたすら問題を解くだけの単調作業ですので、音ゲーと同じです。学問の深遠な理解など必要ありません。極端な話、意味が分からなくてもよいです。英語も物理も数学もみんな暗記と慣れだけで点数が上がります。後の経験で分かったことですが、文系科目も間違いなくそうです。一部の数学の発想力が要求される問題には歯が立ちませんでしたが、高1のときから時間をかけて数学の問題の全パターンの問題を解いてたらもう少し点数は上がったでしょう。「東ロボ君」のような人工知能が入試解けるってのもわかります。私の頭の中はコンピュータに近いので、似たような認知手続きを踏めば解けるのは当たり前です。こんな非人間的なペーパーになんでみんな命かけて取り組んでるんでしょうね。もう少しで大学入試制度も変わるらしいですけれど。

みんなゲームするくらいなら受験勉強の点数上げた方が将来のためだよ、と言いたいところですが実はゲームのように勉強することには落とし穴があります。これは次の記事で書きます。

今ならこう言うでしょう。みんなゲームするくらいなら、デイトレやったほうがいいよ。頭の柔らかいうちなら大口取引のパターンを掴めるから億稼げるよ。

合格発表で号泣したりキモイ叫び声を上げている人を脇目で見つつ番号を確認して、そのまま学生課の賃貸斡旋コーナーへ行き、世田谷区ワンルーム家賃6万というボッタクリ価格の物件を契約しました。最近不動産で資料を見ていたら似たような物件が4.5万で出てました。田舎者という言葉はカモと同義です。情報の非対称性という言葉を知っていればよかった。私はそこに住むことになりました。しかし今思うとこの物件がある周辺って高すぎてこの先一生住めそうにありません。身分相応に郊外に借りりゃよかったのにな。いま私が学生なら、大学の近くの風呂無しボロアパートに2万で住み、トレーニングルームのシャワー室を使うでしょう。どうせ図書館にこもるのだから。

 

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振り返り 高1~2

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田舎の公立トップ校に入りました。東大に年間1ケタ合格する程度で、首都圏の日比谷浦和湘南などから見ればしょぼいレベルの高校です。トップ校に入ったことは長期的に私を無意識下で尊大にしていきます。そもそも高校に入ってすぐ大人が「君たちはリーダーになる存在だ」と言い続ける、純粋無垢タブララサな若者たちを勘違いさせる土壌がある学校でした。もちろん地元では、そこに行く人間は高校の名前を背負うだけで一目置かれるのです。田舎ってやーねー。大学進学で東京に出た人間もなぜか半分くらいは地元に戻るようで、井の中の蛙の拡大再生産が行われます。

『ヨーロッパ思想入門』で紹介されていたロールズの「お前の才能はお前のおかげで獲得できたものじゃないだろ」という思想はとても好きです。おそらくこの思想は、聖書によく出てくる「お前が偉いんじゃない、神のおかげ(気まぐれ?)なのだ」という思想が根底にあるのでしょう。我々無神論な日本人にとっては、神を介さなくても十分に納得できる理論です。投資に勝つことと同じように、自分の能力や進路、獲得したものなどすべてまぐれにすぎません。当時の私にそのような謙虚な考えがあればよかったのに。

しかし私の高校での成績を大きく減退させる出来事が高校入学前にありました。音ゲーと出会ってしまったことです。高校受験も終わり春休み、皆で街のゲーセンに遊びに行ったときのことです。当時はbeatmania complete mixやDance Dance Revolution 2nd mixが稼働中で、音ゲー大ブレークの時期とちょうど被っていました。私は完全にこれにハマってしまっいました。

音ゲーというのは、心理的駆け引きや工夫の求められる格ゲーと違ってほとんど才能が必要ありません。トップランカーであるためには才能も必要ですが、たいてい練習量だけが全てです。時間をかけさえすれば誰でも上達できます。音ゲーはDDRは矢印4つ、beatmaniaはボタン5つ+スクラッチしかなく、複雑性に乏しくパターンが決まりきっています。少ないボタンの組み合わせのパターンを覚え、小さい動きを正確に繰り返すことだけが重要なゲームです。私はこのゲームに向いていたため上達が早く、ゲームの苦手意識が払しょくされるとともに中毒になる原因となりました。PC上で動作するビートマニアもどきBM98の登場により、自宅で練習できるようになったことも事態を悪化させました。私は小遣いのほぼ全額をゲーセンに注ぎ込み、時間も注ぎ込みました。

さらに追い打ちをかけたのが、高校1年前半に彼女ができたことです。私は精神年齢が足りなかったので同じ高校の人間とはあまり人づきあいが無く、ゲーセン繋がりで知り合った別の高校の子でした。仮にAさんと呼ぶことにします。当時はTo HeartやらKanonやら泣きゲーという名の心理的補償をもたらすギャルゲーが流行しており、私も例外なくプレイしていた重度のオタクでしたので、女の子なんぞ世界の外側だと思っていました。ところがAさんにより世界が逆転しました。古代西洋人は地球が平らだと思っていましたから海の果てには断崖があり、その外側には出られないと信じていました。私もモテ世界のことをそう思っていました。ところが断崖の向こう側が突然現実世界になったのです。

Aさんは家庭に問題のある人でした。母親は出ていってしまい、父親は外に女がいました。彼女は父親の両親と同居していました。住居はたぶん市営住宅だったと思います。父親は色ボケだし、祖父母も年なのにハッスルしている人でした。あのじーさんたちきっと、こういうの飲んでたに違いない。ですのでAさんは変態でした。私の初体験はほとんど逆レイプでした。包茎を強引に剥かれ、ただ痛かっただけ、快楽0でした。私はAさんに感化されどんどん変態になりました。

苦手だったことやコンプレックスに思っていたことが解消されると、人間はうれしくなって極端に走りやすくなるものです。私はAさんとのことを積極的に口外しました。ラブホで撮った写真を見せたりしました。周りの人間は間違いなくドン引きだったでしょう。私は勉強しなくなりました。高校でも中学と同じ系列の塾に入っていましたが、じきにサボりがちになり、2学期ごろには辞めました。成績は安定して最下位1割をキープしていました。進学校ですのですべてのテストで順位が出ます。やめてほしいよあれ。今でも、数学の連立方程式を解くテストで

yを消去してxの解を求めよ

y=x^2+x+3

x+y=2

のような問題で、yを消去の意味が分からないので字面だけ見て x+y=2からyを消去してx=2 と回答したことを覚えています。このテストは15点、40人中39位でした(誰が最下位だったんだろう)。

冬になるとAさんに振られました。近くに住んでいる男が好きになったからだということでした。私は当時携帯を持っておらず、ゲーセンしか会う場所が無かったから飽きられたようです。私はまた断崖の向こう側に行かなければいけなくなると思うと苦しく、2日間ものを食べられなくなり、十二指腸潰瘍になりました。潰瘍自体は大したことありませんでしたが、担当した医者が藪医者だったので、胃カメラで苦しくて死ぬかと思いました。ガスで腹をパンパンにしますし、カメラがでかすぎて常に嘔吐感がする、窒息する死ぬ、と思いながら検査を受けました。最近もう一度胃カメラをする機会がありましたが全く苦しくなかった!あいつら絶対ヤブ!でもその診療所は「×××市消化器医療センター」と病院に名前を変え大発展してやがりますので、医療は儲けたもん勝ち、でかい病院だからよい医療であるとは限らないことがわかりました。

Aさんから医者への文句に脱線してしまいましたが、一連の出来事で今後しばらくの人生の力学が決まりました。モテ世界の断崖の向こう側とこっち側への引力です。なんとかして崖の向こう側に戻りたい私はその後相当キモかったと思います。なにしろAさんのせいで変態が染みついてしまったからです。ある先輩に突っつかれたのが原因で、もっと突っついてほしいので告白した、とか訳の分からない行動を繰り返していました。あと2件くらいあった気がしますが詳細を忘れました。

Aさんは今どうしているかわかりません。私の想像では、20代になるころにはヤンママになり地方やドンキによくいるジャージ姿で買い物するような人になったのではないかと思っています。

2年生に上がる直前、ぼんやり過ごしていると同じ中学出身の友人に演劇部に入れと誘われました。私は幼稚園時代のいやな記憶がありますので演劇なんてとんでもない、やだ、と言っていましたがいつのまにか不可逆に演劇部に入らされてしまいました。この部活に入ったことが今後の運命を左右します。

演劇部では舞台に立ちたくないので音響を担当したかったのですが、キモいキャラクター(と明確に言われてはいませんが、たぶんそうだと思います)を買われてマッドサイエンティストな役を担当することになりました。台詞が少ないのでなんとかできましたが、私はアドリブが全くできないこと、新しいアイデアや解釈を生み出せないことが日に日に明らかになっていくため苦しかったことを覚えています。この2つの要素が強く要求される即興劇は苦痛で、発表中に全く動けなくなってしまったこともありました。私はショックでその日学校の屋上入口にひきこもっていました。ハルヒがキョンを最初に引っ張って連れて言った所みたいな場所です。

部活の同級生の男子は私を含めて3人。私以外の2人ともよくモテました。彼らに共通しているのは即興性やギャグのセンス、コミュニケーション能力が高いこと。私は小学校時代中学校時代に引き続き、この2人に劣等感を持ち続けることとなります。また私は行動が変ですので、2人によくいじられました。私はクラスと同様同級生とはあまり打ち解けませんでした。その代り部活に1年生が入ってくると1年生とはよく話しました。精神年齢が1つ遅れていたのだと思います。

そんな風にして2年生のうちは部活に明け暮れて過ぎました。音ゲーは続けていたので成績は相変わらず低位です。このころ、ゲーセンの帰りに閉店した百貨店の脇を通り抜けていたらカツアゲに会いました。細長くて弱そうだったからだと思います。3人で囲まれ羽交い絞めにされましたが、なんとか振りほどいて逃げました。失ったのは強引に引きちぎったコートのボタン1個だけでした。でもゲーセン通いは続けていました。Aさんに振られた日もDDR 3rdmixをプレイしてから返ったほど中毒していました。

夏に演劇の地区大会があり、なぜかそこで他高校の1つ上の人と意気投合し、そのまま付き合うこととなり束の間向こう岸に渡ることになりました。仮にBさんとします。私の当時の精神年齢は相当低かったのですがBさんも同じくらい低かったと考えられます。BさんはAさんほど変態ではありませんでしたがやはり変な人でした。プライドが異常に高く、私が間違いを指摘すると話をしなくなります。私は相手に合わせることを覚えました。彼女の言うことに従い自分は耐え忍ぶということを学びました。そして冬になると使い捨てられたように連絡が途絶えました。私は冬が苦手です。Bさんは寮のある大学校に進みましたがその後どうしているか分かりません。

 

一度切ります。このあとは高3~浪人です。

 

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