愛情、感情はニセモノか

ぼくは高校時代に演劇部に所属していた。成功体験には乏しく演技に苦手意識がついた。元妻には「演技をするな」と頻繁に言われていた。わざわざ苦手な演技なんかしたくない。それでも元妻には、ぼくがどんな反応をしてもオーバーリアクションで、わざとらしく、不自然だと言われていた。元妻は「児童文化部の知り合いがそういうオーバーな反応をしていた、不快だった」と言っていた。罵倒はされなかったがバカにされた。

オーバーリアクションにならないためにどうしたらいいか考えた。

ぼくは、ここは笑わないといけないところだよな、と考えてから笑い、泣かなければいけないよな、と考えてから泣いていることに気がついた。時間と状況に合わせて、他人が求める適切な感情を選択し、出力していることに気がついた。

そしてぼくは真似が下手だった。適切な感情を選択できても、出力は不自然だった。他人から見てオーバーに見えるように振る舞っていた。

だからぼくの感情はうそっぱちなもの、ニセモノだと考えた。ぼくには感情が無い、と考えた。

泣けなくなった。

いまでも感情にフタをする癖は抜けない。

 

ぼくは愛情がない、と元妻は言った。ぼくは言い訳をして嘘をつくから誠実ではないし、ぼく自身の事しか考えていない。家族のことなんか大切に思っていない。愛情があるなら○○するはずだけどしない、××という言葉が即座に出るはずだけれどぼくには言えない(○○、××の具体的な内容は忘れた)、などなど、証拠を何度にもわたって挙げられ、愛情が無いことを証明された。

そうか、自分には愛情が無いんだな、と考えた。苦しかった。

しかし、とあるきっかけで長女に「私は愛情が無いかもしれない」と伝えたとき、長女は傷つき、元妻は激怒し、この件では10回以上責められた。

わけがわからない。

 

本当は感情も愛情も存在していたし、ニセモノではなかった。

ただ、出し方が普通の人とは違うだけ。

恋人にそう言ってもらったことが救いになった。

人前で泣くこともできるようになったし、恋人に、愛を感じると言ってもらえるようになった。

元妻の考える感情と愛情は、元妻にとって都合のよい感情や愛情のことだった。


口答えしたな

返事はハイでしょ – 六帖のかたすみ

うっかり言い訳とみなされる言葉を発すると「また言い訳したな!」という言葉と共に堰が切られ、直接関係のない「××人」などの罵倒語を次々に浴びせられた。 

言い訳、はある日「口答え」にグレードアップしたことを思いだした。ぼくの釈明は「口答えしたな!」という言葉にかき消されるようになった。

元妻には「あなたは私の言うことだけ聞いていればいい」と面と向かって言われたこともあった。

「ハイ」と答えていれば、嵐はいつか過ぎていくと思って、耐えていた。

それを見透かされて、「通り過ぎればきれいさっぱり忘れて、また同じことをするのだろう」と言われたこともある。

ぼくは同じ失敗を繰り返してしまうと思っている。元妻に「もう10年以上経ったけれどあなたは変わらなかった。諦めた。」と言われたからだ。だから前回と同じパターンが発生すると身構える。身構えるのももう終わりにしたい。

でもそんなことはない、自分は変わった。11年の間に人格が数回転くらいしたし、ここ1か月半ほどでも相当変わった。別人になった。変わらないなんて言う人間はぼくのことを何も見ていなかったのだ。見る目が無かったのだ。要するにアホなのだ。

あほーーーーー


一体化

DV被害者にとって最も生きやすい方法は、加害者と一体化することだ。加害者になれば、被害者にならなくていい。自分がまるで加害者と同じものの考え方をするように振る舞えばよい。

ぼくには、真似しかできないという特性がある。ぼくの思考様式は、今までに読んだもの聞いたもののパッチワークで成り立っている。なんでも吸収して、自分のものにしてしまう。

訓練をすれば簡単に他人の思考様式になれる。ぼくはあっという間に親を憎み、地元を憎み、スーパーの野菜を憎み、学校教育や受験勉強を憎み、そして、ぼく自身を憎む人間になった。

ぼく自身を憎むと楽に生きられた。ぼくを憎んでいるぼくを加害者に否定されることはなかった。

一体化にはもう一つ別の側面がある。自分の思考がないということは、自分に責任を持たなくてよい。何があっても、加害者の責任だと思うことができる。被害者は、自尊心の崩壊を代償として、加害者に庇護される。端的に言うと楽をしている。だからといって被害者が悪いわけではない。でも楽はしている。

ぼくのほんの少し前までの文章は、主語が明確ではない文章が多かったらしい。会話でも「誰が」にあたる語句をほとんど使わなかったらしい。ぼくが話のどこにいるのかわからず、聞き手は困惑した。ぼくはどこにもいなくて、最近やっと発見されたのかもしれない。


耐えられる

ぼくはストレス耐性が高い。よっぽどのことがないと、心身症は出ない。

多摩ニュータウンで暮らしていた時、ある日の夕方に家族全員分の布団を敷きながら、激しい腹痛に襲われたことがある。

引越と食費のせいで慢性的に金がないのでぼく自身に医療費をかけたくなかった。ぼくは腹痛をやり過ごすことにした。いつもと何も変わらない表情で布団を引き、会話の受け答えもいつも通り行った。10分後に腹痛は去っていった。誰もぼくが腹痛だったことを知らない。今考えると、連日の満員電車通勤のストレスだったと思う。

これぐらい耐えられると思った。

食費が月25万円になっても、借金が130万円になっても、体重が40kgになっても、月8万5千円で暮らせと言われても、これぐらい耐えられると思った。

なんだって大したことがないと考えていた。

ストレス耐性が高いというのは、問題が起きている部分をなかったかのように扱うこと、つまり自らの問題から目をそらし考えることをやめることと等しく、搾取者を更にエスカレートさせるだけである。


疑問を持たないこと

疑問をもってはいけなかった。疑問を持つと、その質問をすること自体がおかしい、とねじ伏せされた。

言葉として発されない疑問はいつまでも疑問のまま残る。疑問を積み重ねて放置すると腐敗して脳が苦しい。

疑問は少ない方がいい。イエスマンは楽だ。いい人のレッテルも貼ってもらっちゃえるしー。ぼくちゃんうれしー。

理解したふりをして、はいはいと言っているのが心地いい。。

 

もうそんなのは嫌だ。


返事はハイでしょ

ぼくは生活の中でよく失敗をして、元妻に怒られた。怒るだけならいいのだが、元妻は人格攻撃も同時に行う。元妻は「人格を否定しているのではなくて、起きたことにそれ自体対して怒っている」と言っていたが、嘘だ。

ぼくが間違いを指摘して「それは違う」と言うと、元妻は「言い方がきつい」と怒った後、「トーダイ野郎は他人を見下す」と付け足した。元家族の家ではぼくは東大中退であることで驕っている、えらそう、ということになっていたからだ。中退なのに。東大なんか入ってごめんなさい。勉強していてごめんなさい。今でもぼくは東大への評価を低く見積もるバイアスをかけている。

人の気持ちが読めなかったときは、元妻に「××人は他人の気持ちを踏みにじるもんな!」と毎回言われた。××にはぼくの地元の名前が入る。これは元妻とぼくの親の仲が悪かったためだ。ぼくの親のことは家では「××人」と呼ばれていて、ぼくも××人と呼ばれていた。元家族の家では僕が生まれ育った地域も土地も忌み嫌われていた。これも尾を引いていて、ぼくが他人に地元のことを話す時にはマイナスイメージしか語ることができず「ここが美しい」「こんないい所がある」と紹介することができない。

誰だって怒られるたびに人格否定されたら耐えられない。言い返すための論理的思考、ニュートラルな気持ちも備わっていない。気分が地底まで落ちていくのを防ぐために、ぼくはまず、怒られそうになったら言い訳することにした。

例えばぼくの返事が遅いと怒られた。おおむね1秒以上間が空くと怒られる。ぼくは「2つのことを同時に考えていたら時間がかかった」「扇風機に気を取られていた」「◇◇という言葉は意味1と意味2の2通りが考えられるから、どちらかわからなくなって時間がかかった」などと言い訳をした。元妻には「◇◇は状況的に意味1に決まっているじゃないか、意味2を思いつくのはおかしい、さぼっている」などと否定された。

うっかり言い訳とみなされる言葉を発すると「また言い訳したな!」という言葉と共に堰が切られ、直接関係のない「××人」などの罵倒語を次々に浴びせられた。

ぼくは真面目に理由を説明しているつもりだった。しかし、何十回も何百回も「言い訳するな!」と言われ続けたため、ぼくが言い返す行為はすべて言い訳であると認識するようになった。

元妻は「返事はハイでしょ!」と言い、ハイ以外の返事を許さなかった。相手を怒らせたとき、怒らせそうになった時に反射的にハイと言ってしまう癖は今でも抜けていない。

これ調教だよね?


勉強をするなと言われて

元妻には学歴コンプレックスがあった。

ぼくは元妻と出会ったとき、トーダイ生だった。組み合わせが初めから間違っていた。

トーダイ生と聞くと誰でも怖気づく。一言一言に深淵な意味があると思ってしまうらしい。しかしぼくの経験上、トーダイ生は半分以上が発達障害だ。能力に偏りがあって、たまたま勉強ができただけの人間が多い。ぼくもその例にもれず、勉強はできたがその他の能力は極端に低かった。特に言語性の能力は、今までどうやって生きていたのか不思議なくらいのレベルだった。元妻が、ぼくがあほだとわかるまでは数年かかった。あほだとわかった後には逆襲が始まった。

何につけても「勉強は本気になるくせに他のことは本気にならない」となじられた。そんなことはない。何に対しても本気でやっていた。移ろいゆくものや紙に記述されていないものは、覚えられない。口で説明されても流れて行って忘れてしまう。

ぼくはぼくで日々破壊されていく自尊心を保つために、唯一得意だった勉強を続けることが命をつなぐ手段だった。

弁理士試験を中断させられたことは以前にも書いた。

試験を中断させられた後は、隠れて語学学習をしていた。語学は毎日続けると絶対に効果の出るスポーツのようなものなので、好きだった。NHKのラジオ講座を家族が寝た後に聞いていた。ある日テキストが元妻に見つかった。その日は家族全員でコンサートに行く日だった。元妻は激怒し、ぼくは罰として一人家に残された。10時間ほど1人で過ごした。何もする気にならないので、10時間の間ほとんど寝ていた。みなが帰っていた時も寝ていたので、とがめられた。

「表立ってやるならともかくこそこそ勉強していたのが許せない」

と言われたが、表立ってやれるわけがない。

家にある本を読むと嫌がられた。読むと「その本はよくない」などと嫌味を言われ、次の日読むのをやめたら何も言われなくなった。こどもの本を読んでいたら長女が密告して禁じられたこともあった。

家を出るまでの最後の1年半は、物置兼ペット部屋兼の六畳間をあてがわれ、そのかたすみで一日中仕事をしていた。なぜか仕事場には誰も入ってはいけないという決まりになっていたため、ネットで様々な記事を読んでも、PC上で学習していても、まったく気が付かれなかったことが救いになった。

禁じられていた語学学習は押し込められたものが爆発して次から次へと手を出し、最大で6か国語同時に学習していた。 

日常でどんなに傷つけられても、学習している間は毎日確実に成長できるのが楽しくて楽しくて。

一度頭が乾くと、再び潤すための力は無限に大きくなる。

 

語学学習は自尊心を保つための糸としての役割を終えたのか、もう1か月以上何もしていない。

いまは勉強を禁じられることがない。それどころか推奨される。なんて自由なんだろう。

たくさん勉強したい。この世界をもっと知りたい。


私の方がうまくできるのだから

ぼくが家事をやらせてもらえなかった理由は元妻のゆがんだ完璧主義によるものでした。

洗濯物を干す順番と方向、裏返す時間、取り込む時間、畳み方、タオルを重ねる順番などなど一々すべてに注文がありました。ぼくは細かい手順を覚えるのが苦手で、しかも毎日やり方が変わるのでついていけませんでした。間違っているとイライラされ、「頼まなければよかった」「頼んだのが間違いだった」「自分でやればよかった」と言われ、教えるのも面倒ということで仕事を取り上げられました。

いまは家事ができて幸せです。

元妻の口癖は「同じことを父の前でやったら殺されている」でした。

元妻の父(ぼくから見て元義父)は何か気に入らないことがあるとすぐに殴る人間だったそうです。元妻は殴られないようにするために論理武装や弁舌、巧妙な嘘をつくことを覚え、元義父を言い負かすことができるようになりましたが、そのために元義父の脅威となり、さらに殴られました。

元義父は社会的には優れた人だったらしく、親類や会社の人間の世話をよくしていたそうです。元義父の言葉には元妻の人生観に影響を与えたものが大きかったらしく、元妻が元義父について話すときはいつも愛情と憎悪と恐怖がミックスされたものが伝わってきました。

元義父は几帳面で完璧主義で強迫症気味で、顔を洗いすぎて眉毛がなくなるほどだったそうです。ぼくはたぶん、彼と同じものを求められたのではないかと思います。何事につけても元義父と比べられました。でも19歳年下のスペクトラム星人にそれを求めるのは酷です。

ぼくが家事をうまくできなかった理由を伝えると「言い訳をするな」と頻繁に言われていたことを今思い出しました。いかなる理由を述べてもぼくが悪者になりました。具体的にどう言い訳したのか覚えていないので、ぼくと元妻とどちらが正当なのか判断することはできません。今よりも遥かに言葉に不自由していたので、子供の言い訳のようなものだったと想像します。全力で正当化していたことは覚えています。言葉で叩き伏せられるのが怖いから正当化しないと死ぬ、と思っていたことだけ覚えています。

「私の方がうまくできるのだから、あなたは言うことを聞いていればいい」

「口答えをするな」

「今口答えしたな」

少しずついままでに言われたことを思い出してきました。家を出て数か月間、頭の安全装置のせいで封じられていたものが漏れてきています。思い出せる限り書き続けていきます。


罵倒と部活

最近軽いフラッシュバックのようなものが起きました。ちょっとしたパニックです。フラッシュバックという概念が今までなかったので、意識したのは初めてです。頭に浮かぶ風景は中学時代の、廊下と職員室でした。

中学時代、吹奏楽部に入っていました。中学の部活というのはいかに生徒を統制して練習量を確保するかで勝敗が決まります。顧問で部活の質が9割以上決まります。

自分はクラリネット担当でした。クラリネットには金属製のバネが多数ついていて、ボタンを押すと連動して管の穴を複数抑えて音色が変わる仕組みになっています。ぼくは手にたくさん汗をかく体質でしたので、バネがすぐ腐食し頻繁に折れました。

はじめてバネが折れた時のことです。バネが折れたことを職員室にいる顧問に報告しなければいけませんでしたが、なんて言ったらいいのかわからない。顧問は怖いし怒られるかもしれない。職員室に入るのが怖い。ビクビクしながら早く職員室から出てきてくれないかなと願って廊下を右往左往していました。

ウロウロしている姿が顧問に見つかり、ドアを開け廊下に出てきて、なぜ入ってこないのかとぼくを罵倒しました。入らなくても怒られました。

顧問は強面で生徒を罵倒し、長時間の練習で疲弊させ、生徒間に奇妙な連帯感を生ませました。音楽は大好きでしたし今も大好きですが、「指は動くのにメロディーを歌うことが全くできない」「動きが硬い」と3年間言われ続けたことは今でも尾を引いています。じゃあこうしようああしようというアドバイスはありませんでした。自分はガチガチで情感を込められない人間なんだよなと今でも考えています。

ぼくは当時とろかったのでよく怒鳴られました。怒鳴られると恐怖が育つので、顧問のいうことをよく聞くようになり、演奏に方向性が定まります。こうして、ぼくの入っていた部活は、メインストリームではないものの小規模な全国大会で金賞をとるような吹奏楽部になりました。

顧問の強権に耐えられず、脱落する者も数名いました。ぼくは口には出さなかったものの、彼らのことを「適応できなかった弱虫」と心の底で思っていました。

今思い出しましたが部活の1つ上の先輩にちょっと頭の動きの弱い人がいました。彼は目立つので標的になりしょっちゅう罵倒されていました。彼はそれでも3年間部活をやめなかったので自己評価がズタズタになり、何の仕事をやっても長続きしない人になってしまいました。何につけても自分はダメなんだと話していました。部活がすべての原因とは思いませんが彼が安寧を得られる場所はあったのでしょうか。

話がそれますが今日元バイト先の塾に給与の事務処理を行いに行きました。教室長が怒鳴りつけた生徒が今どうしているか聞いたら、怒鳴りつけた後は心を開くようになって今でも通っていると話していました。教室長は

「ああいうやつは出鼻をくじかないといけない」

と言っていました。授業態度が悪いことを怒鳴りつけてやめさせ、言うことを聞かせるようにすることができた、という意味と解しました。ぼくは何も言い返せませんでした。

たぶん軍隊もこのように動いているんでしょうね。罵倒して重労働させて自己意識を粉々に解体して、思惑に当てはまるように再構成する。極めて効率的です。

強い部活とは軍隊です。中学時代の短い3年間で効率的に強い部活を作ろうと思ったら、自己意識をぶっ壊して画一化された思考を植え付けさせ、部活マシーンにしてしまうのが手っ取り早いです。そうすれば生徒に何を命令しても言うことを聞きますし、むしろ顧問を尊敬するようになります。私も今日にいたるまで尊敬していました。同じことは職場でもあるのでしょう。耐えられない人間が退職したり、退職による社会不安に耐えられない人間は自殺します。

ぼくは平日夕方に通っていたピアノレッスンを顧問によってやめさせられました。週1で抜けて練習に行きたいんですけどと言ったら、部活が優先だからやめろと言われました。やめました。ツェルニー40番まで進んでいましたがここでキャリアが中途しました。これも話がそれますが前の家に置いてあるピアノを見て久しぶりにハノンを弾いたら元妻に指の使い方がおかしい、先生は何を教えていたのだ馬鹿じゃないのかと言われ、ぼくはそれ以来ピアノに触っていません。

3年間の練習は恐怖のうちにありました。今日も顧問が怒らなかった、よかったなあ。毎日考えていました。どれだけの生徒が同じ思いをしていたのかは知りません。ただ、中学時代に恐怖政治の影響で真面目だったのに高校になって弾ける人が多かったことを考えると、似たような思いをしていた人はたくさんいたのでしょう。

恐怖政治が敷かれると、被支配者は死ぬような思いをして空気を読むことを覚えます。ぼくは自閉症スペクトラムの影響もあって空気を感じられませんので、どうすれば怒られないか必死で迂回路を探しました。元妻と過ごした11年間でも同じことをしました。しかしこれはどうすれば怒られ「ない」か、というブラックリスト的な知識なので、演繹できません。個別のやっつけ対応を無数に用意してなんとか人生を生きていました。だから考え方がいびつです。原理原則がありません。どれだけ「ない」を集めても無限の世界の前では原理的に漏れが出るのでその度に怒られたり、罵倒されます。

しかしいびつでも世の中一般から見るとそれなりの成果がありますので、顧問のことも元妻のことも、自分の適応に役立ったと感謝していました。しかしそれは自己評価の低下や被支配と引き換えでした。


パキシルで射精障害になると

ぼくは21歳の時引きこもっていて、パキシルを飲んでいました。

パキシルの副作用【医師が教えるパキシルのすべて】

服用している方は知っているかと思いますが、パキシルを飲むと射精するのが難しくなります。

勃起はしますが出ません。

出すには手で強い力をかけるなどかなり無理をする必要があります。

セックスでは不自然に強い力をかけられませんので射精できません。

 

Kと交際するとセックスしました。ぼくははじめコンドームを着けていましたが、Kはつけていてはだめだと友達に忠告されたと言い、外されました。忠告が本当にあったのかどうかは確かめられないので知りません。

Kは当時39歳でしたので焦っていました。こどもがほしかった。

ところが生でしても射精できません。パキシルのせいです。

なので医者に相談せずにパキシルを断薬するように言われました。

ちなみに付き合った当時は10歳サバを読まれていました。ですから焦っていることも分かりませんでした。

ぼくは当時非常に精神年齢が幼かったことから、ここまで書いたことのほぼ全部の意味を理解していませんでした。「なんかおもしろそう」という気持ちでした。当時の精神年齢は12歳くらいでしょう。いまは18歳くらいかな。自閉症スペクトラムも関係しているでしょうね。

上のリンク先でも触れられていますが、パキシルはSSRIの中でも作用が強く、副作用も断薬時の禁断症状もめちゃんこ強いです。

一気に投薬をゼロにしたので、一日中頭がシャリシャリしていました。今思うと高い確率で自殺してます。希死念慮については心配はされていましたが心配するぐらいなら医者にかけろよ。

ぼくはもともと感情が平板だったのか、希死念慮が起きることもなく数週間シャリシャリに耐えて断薬することができました。

断薬してしばらくすると射精できるようになりました。めでたしめでたし。

 

ということを思い出しました。

一昨日くらいに過去のことをしゃべっていたらこのような事実関係に初めて気が付きました。

どこまであほだったんでしょう。もう少しで死ぬところでした。

過去のことを少しずつ思い出してきています。以前書いた振り返り記事でも触れられていない事実がまだたくさんありそうです。思い出せないのは、記憶を隠蔽して何も感じない状態をデフォルトにして、自分を守っていたからでしょう。

徐々に気持ちが不安定になってきているのがわかります。まっ平らだった感情が少しずつ復活しているからだと思います。まだ耐えられるレベルですが、今後自分がどうなっていくのかは心配です。

過去を整理して気持ちを落ち着けるには長い時間が必要ですね。

思い出すことがあれば自分のために書いていきます。