書籍レビュー: 発酵する物語『ピンザの島』 著:ドリアン助川

★★★★☆

 

刊行は2014年2月。最近の小説も読んでみようと思いamazonで適当に評価が高そうなやつを選んでターゲットにしました。といっても完全なランダムというわけではありません。ドリアン助川さんは前住んでいた家で取っていた新聞に時々人生相談で登場しており、最も好きな回答者でした。

舞台は沖縄(と思われる)の架空の離島。うさんくさいバイトの斡旋でやってきた3人の男女。この設定だけ見ればかるーい愛憎劇に発展するのかと思ったら全然違いました。文体こそ読みやすく軽快にサラサラ進んでいけませんが、ドリアンさんの人柄のまんま、無駄な濡れ場なども全く存在せずとても上品な作品でした。テーマは途中まで全く想像のつかなかった「発酵」です。文章も物語も後半に行くにしたがって熟成していきます。ラストの描写は作者も熟成チーズを作るような気持ちで文章を書いたことが想像できるようです。

本書を貫いている感覚は「負け」の感覚です。主な登場人物は20代後半、人生をドロップアウトしたと思っている人たちです。主要人物の一人、立川のセリフです

「だけど、そんなことで頭に来てる自分ってのも、オレ、嫌なんだよね。だから過去のことをさ、くそみてえな、そういう日々のことを忘れてえなって思って。それでずっとふわふわして、遊び半分みてえに生きてきたんだけれど……あのさ、全然ダメなんすよ。そうやって流れてても、なんも変わんねえの。リアルってのが無いんすよ。生きてるって感じがしねえの。だからいつまでも昔のことが気になるんだ。」

これの答えと思われることを主要人物の一人「ハシさん」60代が主人公の涼介に語ります。

「涼介さん、私は思うんですが……人生の節目という意味では、敗北も勝利もそう変わらないのではないでしょうか。むしろ勝利は、気付きを与えない分だけたちが悪い。あなたは敗北してよかったんだ」

人間は勝ち負けにこだわります。しかし「勝ち」「負け」が明確に定義されてることってほとんどないのではないでしょうか?20代後半というと私もそのような勝ち負け意識にさいなまれたことがありましたが、もうそこは乗り越えてしまいました。人生長いスパンで考えると勝ちも負けも全く意味をなしません。この観点からすると帯で煽りに煽られてるラストシーンは若干がっかり感がありますので★マイナス1つとさせていただきます。あと10年早く読んでいたら得るものがあったと思います。

 

 

関連書籍

似たようなテーマだと思います。特に下巻。

自虐の詩 (上) (竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)

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自虐の詩 (下) (竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)

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次の本を読んでいたので発酵については知識がありました。

 


書籍レビュー: 日本人って執着し過ぎじゃない!?『幽霊画談』 著:水木しげる

★★★★★

 

先月末に亡くなった水木しげる先生の追悼の想いを込めて読みました。私は水木サン大好きでした。連続テレビドラマ小説のゲゲゲの女房も見ました。ドラマはいまいちだったけど。

幽霊について大量のカラー絵と水木サンの解説が収録されています。水木サンはスクリーントーンやPCでの彩色などという軟弱なものは一切使いませんのでとにかく線と点の数がすごい!毎回見るたびに思いますが執念のようなものを感じます。水木サンの生霊がどの絵にもこもっていますね。

幽霊というものはほとんどが「志半ばで死んでしまったため、恨みを残したり土地に執着する」というパターンです。これは生きている者が「無念だったろうなぁ俺もそう思うぜ」という想像力を働かせていろんな物語を作ったのでしょうけれど、私はこれ、幽霊に取っちゃ迷惑な話だろうと思うんです。

死後の世界が存在するとしての仮定ですが、私がいちばん疑問なのは、なぜ幽霊たちが死後の世界をエンジョイしようと思わないのか!?ということです。だって死後の世界って何やったって生前の自分には未体験なんじゃん!!幽霊世界の一般的価値観というものはわかりませんが、幽霊として自分ができること、何をやったらよい幽霊生活を行えるか、なんて幽霊もみんな考えると思うんですよ。恨みを晴らすため現実世界の人間を取り殺してやるといったマイナス思考に陥らない幽霊だってたくさんいると思いませんか?私だったらどれだけ恨みがあったとしてもしないよ。死んじゃったもんはしょうがないじゃん。そんな暇なことするくらいだったら今日は昨日よりも1km遠くまで浮遊してみようとか、人魂15個作れたぜ!とか、念力トレーニングしたら消えているはずの足が見えるようになったぞwwwとか面白いこといっぱいできると思うんですよね。

といっても現実の人間でも幽霊でも後世に話が残るのは人助けをしたか犯罪者になるかどちらかのパターンが多いですから、私の心配なぞ的外れで、大多数の幽霊は話題にもならず地道な幽霊ライフをエンジョイしているのかもしれません。毎日死んでゆく人間の数を思えば残っている幽霊話の数はごく少ないことがそれを証明していると考えました。

内容に全然触れてなくてすいません。水木サン現世ではお疲れさまでした。100歳まで生きられなくて残念でしたが、今ごろ妖怪か幽霊になってるでしょうから面白おかしいライフを続けてください。

 


書籍レビュー: モルギアナさんの裁縫『少年少女世界の名作文学 古典1』 小学館

f:id:happyholiday:20151222211822j:plain★★★☆☆ 横になっちゃった 

 

近くの公民館に『少年少女世界の名作文学』全集が揃っていました。

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荘厳な眺めです。こういうのを見ると手に取りたくなりますよね。様式美ですよね。こども用の文学全集というのはだいたい昔に編集されたものですので、概して文章が綺麗です。それを期待してこの全集を読破してやろうと一度決めました。

 

最初200ページは「アラビアン=ナイト」でした。千夜一夜物語としても知られるこの話は、女性不信で毎晩女性を部屋に連れるなり殺してしまう恐ろしい王様のところへ行ったシェヘラザードという女性が毎晩毎晩合計1001の面白い話をして王様を楽しませ、王は続きが聞きたくなって殺すのをやめるというストーリーです。アラビアに伝わる昔話集という位置づけでしょう。

実は千夜一夜の名前は伊達じゃなく原典は岩波文庫で全13巻もあるという超大作です。しかしこの全集には200ページしかありません、、つまり抜粋なのです。上のようにあんなにたくさん本が詰まっているのに、世界中の話を詰め込んだら抜粋を免れないとは、一体物語とはどのくらい存在するのでしょう。

読んでみると本文も凝縮されていました!例えばシンドバットの冒険。次の超展開をご覧ください。

わたしは、また船で海に乗り出した。そのうちに、あらしがきた。ものすごい大波に押し流された。ガツーン!メリメリッ!と、船が岩にぶつかった。

「あっ!」

 そこはさるの島だった。数えきれないほどのさるどもが、岩の上から船の中へ飛び込んできた。さるどもは、あばれまわって、帆をずたずたに破ってしまった。

 わたしたちは船から逃げ出して、島の奥深いところまで逃げ込んだ。大きなほら穴が見つかった。

こんな調子で超簡潔にものすごいスピードで話が進んでいきます。シンドバットは7回冒険をしますが毎回難破してそこで必ず宝を見つけ必ず金持ちになるというお約束を漬け込みまくった話でした。

アラビアと言えばイスラム教、本書もイスラムな要素があちこちで出てきます。たとえば「りこうなダリラと娘のゼブラ」の記述です。

明くる日、ダリラは、あまさんのかっこうになって、白い毛織のマントを着け、太い数珠を首にかけ、手に水を入れたツボを抱えて広場へ出かけた。このツボの中には、小さい金貨が入れてある。

「ありがたや、ありがたや・・・アラーの神様は、ありがたや・・・」と大臣の屋敷の前で大きな声を張り上げた。

このあとダリラはこの金貨を使って口八丁手八丁で門番に自分を神の使いと思いこませ、人をだましまくります。アラーアラー言って神の使いを装うなんてめっちゃ神の冒涜で、今を時めくイスラム国には禁書にされてしまいそうです。これが余裕で流通していたアラビア世界のイスラム信仰は、かなりライトだったと思われます。千夜一夜物語の発祥は8世紀ごろと言われています。他にも「魚が取れないからアラーにお願いしろよ。アラーなら魚くらい取ってくれるだろ」などという困った時のアラー頼み的記述も見受けられました。

「アリババと7人の盗賊」は「開け、ゴマ」で有名ですね。この話、かなり荒唐無稽でした。隠し財産を入れたほら穴が開く盗賊の呪文「開け、ゴマ」を盗み聞きしたアリババは財宝を盗んで貧乏を脱出します。兄の金持ちのカシムがそれを聞くと欲が出て、真似して「開け、ゴマ」を唱え財宝を手に入れるものの、嬉しさで呪文を忘れ洞窟から出られなくなり、盗賊に見つかってなんとバラバラに惨殺されます

アリババは山のほら穴に行ってみた。びっくりした。兄のカシムの、ばらばらにされた体を袋に入れると、あわてて町へ帰ってきた。

カシムの家では、おかみさんが待っていた。

「うちの人は?」

「こんな姿になっちゃった!」

「あーん!」

あーんじゃねぇよ!まるでドラクエを見ているようです。どこまでも簡潔すぎます。

この後盗賊が兄カシムの死体を探して追ってくるのですが、モルギアナという召使の機転で、なんと靴屋にカシムの死体を縫わせて「バラバラじゃないからこいつじゃねぇ」と盗賊に思わせて一時を凌ぐという離れ業を披露します。モルギアナさんぱねぇ。

若くて美しいという設定のモルギアナさんの挿絵をご覧ください

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昔のこども向け小説は絵がとってもきれいですね。

 

他にはギリシャ神話やオデュッセイアなどが入っていたのですが重複するのでスキップしました。また、どの話も編者のフィルターを通してあまりに圧縮されすぎていてとても悔しいので、残念ですがこのシリーズはこれ1冊でやめにして、世界の名作は全訳か原文で読むことを目標にします。


書籍レビュー: 小さき光 『紺』 著:c71

追記:『紺』電子書籍版が出版されました。

 

 


一体どんな記事が読まれているのだろう、とクリックしてみて衝撃を受けたのを覚えています。初めて読者登録したのはc71さんのブログでした。それ以後も新着記事が出るたびに読んでいます。このブログがどうして気になるのか分かりませんでしたが、過去のログもさかのぼって読んでいました。
本書はc71さんが第一回文学フリマ福岡に出品した作品です。上のリンクからstore.jpでも購入できます。私はここで購入しました。内容は小品が4つ、彼女の実体験に即した*1私小説、随筆とブログの記述をさらに大鍋でじっくり煮詰めたような作品でした。

1作目『「頭蓋骨を割られたんだよ、それでも」と彼女は』はDV被害者?のためのシェルターでの出来事です。ちょっと長いですが、一番印象に残ったところを引用します。

 痩せぎすの女は続ける。「警察を呼んでね。それで、わたしの自動車だったらまだ我慢できた。だって、わたしのだものね、わたしの頭蓋骨だって、ひびが入ったんだよ。それでもね、それでもさあ、体のことならまだ我慢できた、でも、子どものものをなんてね、あれはあの子のものなんだよ」と目の周りを黒くして、堂々とした調子で言った。わたしは、なぜ、頭蓋骨を割られても我慢したのか、ということが理解できないでいる。
 「それでね、わたしは、逃げることにしたの。そうだよね、誰だって逃げるでしょう。頭蓋骨は自分のことだからなんとか逃げないでいても、ほら、子どものものだったら、自分のものじゃないから、それはひどいと思って」わたしはそれを聞きながら、魚の煮物を食べようとしている。頭蓋骨を割られても女は、我慢するものだ、という気持ちの欠片がわたしを刺している気がした。

よく読むと、実は痩せぎすの女は「頭蓋骨を割られても女は我慢するものだ」とは言っていません。「私は我慢した、子ども(を殴った?)のは許せない」と言っています。ここから「わたし」は相当に強い歪みを植え付けられたことがわかります。2作目を読むと分かるのですが、「わたし」がシェルターに避難する前に交際していた男性は拘束する男性だったということですので、四六時中、女は耐えるものだとか俺の言うことだけ聞いていろ反抗したらただではおかないとか言われ続けたに違いありません。つまり気持ちを刺したのは痩せぎすの女の言葉を借りた、男です。後述しますが男はアホです。支配自体が好きなので何でもします。

2作品目の『ブルー・ビーナス・ブルー』は個人的なことで申し訳ないのですが、あまりにも自分の状況とタイムリー過ぎて打撃をうけました。これを読んで私がなぜc71さんのブログが気になっているのかわかりました。1作目から時系列が戻り、同居男性からの拘束から脱出する前後の過程を描いています。

直接殴られることはなかったものの、生活の中で、私の意志が通ることはなかった。あれが「生活」と言えるならば。今のわたしはあれが、「生活」なんてものなんじゃないと知っている。わたしは「言葉」で、愛していると言われたから、それが約束だと信じていた。信じていたけれども、実際には、いつも譲ることが多く、だんだん、意思やからだの安全を浸食されて、友人との接触も家族との接触も禁じられるようになっていった。

わたしが探していたのは、この感覚だったようです。私の意志は、十数年間の生活の中で、葬り去られようとしていました。外出できる時間は限られ友人との接触もない、食事への無駄な浪費*2のせいで私に残るお金はゼロ、意見の違いは私の異質性と頭の回転の悪さのせいで、論駁され切り捨て、すべてどこかに置いて行かれました。
私の親がキチガイなのも悪いのですが、過去の自分と関連がある世界は全てタブーでした。口に出すことも許されていませんでした。私は過去の夢をしょっちゅう見ました。明らかに抑圧の補償のためだったと思います*3。家族との亀裂の決定打となったのは私が古い友人と会うと言ったことでした。私も決定打となることが分かっていて言い出しました。
わたしはc71さんの段階よりもさらに進んで、結婚しこどもも生まれました。そしてこどもを3人置いて家を出ました。世間一般の常識から言ってクソ人間です。自分のお金がないことで困っていたのに、結果的に生活費はワーキングプア以下となりました。通帳もカードも置いてきました。給料の80%以上が毎月そこから引かれます。しかしそこまでしてでも自分の独立が欲しかったのです。
20代の頃は愛というものが存在すると思っていました。そしてそれを求めなければいけないと思っていました。求めなければ人間としてのレベルが低い、人間失格、自己卑下すべき存在だとすら思っていました。私たちはいかに社会に思考様式を規定されてしまうことでしょう。
しかし私にはもともと愛なんて備わっていなかったようです。気が付くまで10年以上かかりました。でも指輪はしたままです。外す理由が見つからないのです。あるのかないのかどっちなんだ。まだ家を出たばかりで、気持ちが整理できるまで時間がかかるのでしょう。もっと正確に言うならわたしには愛はあるが世間一般の愛とはずいぶんと違うものなのではないかと考えています。どう違うのか説明するためにはもっと頭が良くならないといけません。

脱線しました。自分のことを話したがるのは、抱えていたものが重すぎて吐き出さないと潰れてしまいそうだからだと思います。拘束される男から逃げるくだりでは、「わたし」ははじめ歩けないと思っていたと書かれています。

風はわたしの方に吹き込んで来たので、わたしは風に抵抗するように歩いた。風を切って、振りほどくように。歩こうと思ったら、歩けた。歩き方も忘れたと思っていたのに。指示されなければ右足の出し方も忘れてしまったのだと思っていたのに。右足を出したら、左足が出た。交互に動かしたら歩けた。

とても感動的な描写です。この「右足の出し方も忘れてしまった」というところがグッとくるのです。そう思わされているだけなのです。無能力にされていたことに気づけて良かったと思います。恫喝によって近しい人間を無能力にするというのはアホの使う常套手段ですが、それはそれだけあなたが脅威であったということですので、自信持ってください。

 

3作目『柔らかにつたのつるは伸びて』稼がない男や生活能力のない男の批判がされています*4

 小菅井さんの口癖は「どう思う?」と「男なんてほんとろくでもない」で、わたしはその後者に強く同意する。本当に男はどうしようもない。働かないし、偉ぶるし。

私は男ですが、主語を大きく一般化して男はバカだと言い切ってよいと考えています。思うに、女性は生理があるため体のバランスが周期的に変わります。したがって体調を常に気にせざるを得ません。すると、あああの人も大変なんだなと他人への思いやりも湧きやすいのではないかと想像します(共感しない人もいると思います)。視点が自らの周辺に集中する以上、生活への関心も高くなるでしょう。
男は体温が一定です。自らの生存についてあまり考えないでよく、せいぜいウンコ漏れそう程度の生理現象を気にしていればよいです。なので体のことなんか無頓着です。自分の体に無頓着なら他人の体にも無頓着で想像力不足です。いきおい視点は他人ではなくオレ様に向かいがちです。しかし他人は自分の言うことを聞かないし、男は言語的能力が低いことが多いため他人を説得し納得させる能力もありません。
そこで生物学的に恵まれやすい腕力をもって他人に言うことを聞かせます。自分の体はてめぇのおかげで獲得できたわけではないのに、腕力が自分の力である、自分えらい!すごい!と考えます。口では絶対に言い負かされてしまうことが分かっているので、腕力への盲従バイアスはらせん状に強まります。暴力を振るう人間はいつも隠れてビクビクしているのです。砂上の楼閣です。このような人間にはバンバン公権力を使ってください。後ろ暗い人間は法や権力に弱いのです。

ラスト『夜には星をつかんで』はいつものc71スタイルで、とても好きな作品です。

 頭を抱えたくなることもたくさんあるし、自分がやってしまったことを後悔することもある。恥ずかしさに叫びだしたいときもある。夜には気持ちがすっと深い色になる。悲しみも、苦しみも、苦さも、秋の色のように、深く沈んだ、でも豊かな色合いになる。

c71さんは色の表現が好きですね。脳の配線が知覚と色で混線すると共感覚が発生するそうですが私は色彩が感情と分断されており夢にも色の概念が存在しないのでとてもうらやましいです。タイトルも『紺』でしたね。紺色がどのような気持ちと重なるのか興味があります。

本作品は特に最後の1ページが好きで紹介したいのですが、ここで引用すると本作品の価値が減ぜられるおそれがあるので、みなさん買って読んでください。私のブログはc71さんのものとくらべると2ケタ少ない人数しか読まれていないので、大した数にはならないですが。。

そういえばc71さんは自閉症スペクトラムであると書いていました。私は8年ほど前にアスペルガー(DSM-5では自閉症スペクトラムの一部分になりました)と診断を受けています。誤解を恐れずに言えば自閉症スペクトラムとは、先天的わがままである、と考えています。

自閉症スペクトラムは脳の配線や機能的な不均一に由来することが近年わかってきていますが器質的なことはさておき、いくつもの実証例を見てわかることは、スペクトラム星人は地球人とは思考様式が異なるということです。常に日本語とスペクトラム語に同時通訳しながら他人と関わる必要があるため、消耗します。地球人との会話は不可能ではありませんし家庭生活を営める星の人間も存在しますがきっとその人は疲れています。私も疲れた人間のうちの一人です。先天的わがままと表現したのは、他人と交わることを期待しつつ、根源的なところで孤独を好む存在であるということです。他人と有機的で実りのある、お互いに高めあうような交際をしたいんだけれど、実は心の底で自分の利得を計算している。根っこのところで他人の願いよりも自分の願いを優先したいと思っている。いま読んでいるソローもそんな人間に見えます。でもそれの何が悪いのかというと、何も悪いところはありません。地球人よりも自覚的にわがままになれる、らくーにわがままにスイッチを入れ替えることができるというだけです。ただし近年知られているように、スペクト星人には色んな惑星の出身者がいますから、みんながみんなそうという訳ではありません。これは私の主観です。どうも、スペ人には他人との密な交流を求めるも挫折する人間が多すぎるように思うのです。。

最終1ページがなぜ好きかというと私がここにものを記すスタンスと完全に一致しているからです。一人になって、誰もいない住宅街を歩き誰もいない部屋に帰る夜、この記事の下書きをほのかな光の中で作っている気持ちにジャストミート*5しました。あなたのシグナルが届いている人はたくさんいます。ここにもひとり。

 

 

紺

 

 

*1:そうじゃなかったらごめんなさい

*2:家族は無駄と思ってないでしょう

*3:「夢判断」を読まなければ

*4:1作目にもあります

*5:いつ流行ったんだっけこれ


書籍レビュー: 変身!『ギリシア神話』 訳・編:石井桃子

★★★★★

ここで関連書籍として紹介した「ギリシア神話」です。石井桃子さんは2008年に亡くなった有名な児童文学者・翻訳家です。101歳まで生きてます。

原著はイギリス・アメリカの子供向けギリシア神話本です。

Favorite Greek Myths

Favorite Greek Myths

 

すげーなamazonに在庫あるのか

 

つまり、二重翻訳ということになります。しかし石井さんは文学者の重鎮ですので日本語に全く乱れがありませんさすが。小学校高学年がターゲットとのことですので一気に読めます。

岩波ジュニアの方で解説されていた、頭から誰を生んだだの吐き気がしそうな神々の誕生秘話は根こそぎカットされ、種々の神々や英雄を主人公とした短いお話がてんこ盛りです。富山妙子さんによる必ず横向いてるのが特徴なギリシャ風の挿絵もとてもいい雰囲気を出しています。

ギリシア神話はいわゆる「むかしばなし」ですのでよくある典型的なクエストものの話が多いです。例えば勇敢なヘラクレスを妬んだエウリュステウス王がヘラクレスに12の無理難題を言い渡し、ヘラクレスがあちこちバケモノ退治をして歩く話なんかまんまドラクエとか、ジョジョ第三部みたいな構成です。女神アプロディテの怒りをかったプシュケがあれ取ってこいそれ取ってこいといくつもの難しい仕事を押し付けられるのも、珍しい贈り物を次々と要求するかぐや姫的です。嫉妬、傲慢、勇気、不条理、昔話には物語のテンプレがつまっているようです。

いちばん印象に残った話はエコーとナルキッソスの話です。

エコーはおしゃべり好きなニンフ(女妖精)で、口が滑ってゼウスの妃である女神ヘラに失礼なことを言ってしまいました(何て言ったのか気になる)。ヘラは怒り、エコーを他人が喋った言葉の最後を繰り返すことしかできないようにしてしまいました。エコーはかなしくなって森の奥に姿を隠しました。

あるとき森の中にイケメン・ナルキッソスが現れました。エコーはドキリンコ。この後の物語を石井桃子役でお楽しみください。

ある日、ナルキッソスは、森の中で、友だちとはぐれてしまいました。耳をすますと、木のあいだで、なにかサラサラという音がします。

「だれだ、そこにいるのは?」

と、ナルキッソスがさけびました。

「そこにいるのは?」

と、エコーがこたえました。

「わたしは、こっちだ。おいでよ。こっちへ来る?」

と、ナルキッソスがいいました。

「こっちへ来る?」

と、エコーはこたえました。

そして、エコーは、木のかげからそっと出ていきました。ナルキッソスは、出てきたのが、友だちではなくて、知らないニンフだとわかると、びっくりして、いそいでにげだしました。

エコーは、それからというもの、出あるくことも、人にすがたを見せることも、二度としないようになりました。そして、かなしみのために、からだがだんだんやせほそって、消えてなくなり、とうとう、声だけになってしまいました。

うそーん。

かなしすぎ。

こうしてエコーは英語のechoと同じ存在、山びこになってしまったということだそうです。

さらにこの後、ダブルパンチでナルキッソスの話が続きます。ナルキッソスはナルシスト野郎の語源の通り水面に写った自分の顔に惚れる野郎ですが、実はこれ彼のもともとの性質ではありませんでした。かわいそうなエコーから逃げてしまったことに対して他のニンフ達が腹を立て、復讐の女神に訴えて、ナルキッソスに罰を与えたのです。ナルキッソスには、池に写る自分の姿が、一度も見たことが無いような美しいニンフの姿に見えるようになってしまったのです。

「美しい水のニンフさん、どうか、へんじをしてください。」

ナルキッソスは、たのみました。けれども、水のなかの顔は、けっしてナルキッソスにこたえませんでした。いつかのエコーとおなじように、ナルキッソスの心も、はじめてかなしむことを知りました。あんなに美しかったナルキッソスは、やがて、やせて、あおざめ、見るかげもなくなりました。

エコーの友だちのニンフたちは、それを見ると、ナルキッソスがかわいそうになって、

「女神さま、どうか、あの若者を、もう、ゆるしてやってくださいまし。」

と、また、おねがいしました。

このねがいは、ききいれられました。銀のようにきよらかな池のそばに、ある朝、一りんの花が咲いていました。かなしみにやせほそったナルキッソスは、消えてしまったのです。そして、美しいキズイセンの花になったのでした。

ええー。また悲しみによる変身+喪失。これを読んだときの寂寥感と言ったらなかったですよ。マジで悲しい。現代ドラマやら小説やらではやたらに人を殺して喪失感を演出するわけですが、ここに古代ならではの変身をぶちこまれると喪失にいろどりが加えられて一層引き立ち、心をしめ殺しにかかられます。現代で変身と言って思いつくのはFF4で石になって主人公たちを助けたパロム・ポロムくらいですかね。つってもこいつら復活するしありがたみが全然ないですね。類する話が思いつかない。。

 

他にもホメロス二部作「イリアス」「オデュッセイア」の読みやすい要約版も入っておりこれ1冊で生きたギリシア神話を概観することができます。おすすめの一冊。こども向けではあるものの私がこの本を借りたら出版から8年経っているというのにめちゃんこ綺麗でした。紐しおりも初期状態。つまり誰も読んでいない。これ、全国各地の図書館でホコリを被っているだけの本だと思います。皆さんどうぞ借りてあげてください。そうすれば、この本の中で生きている神々も大喜びすることと思います。

 

 

 

関連書籍

つぎは原著を読もう。

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

 

 

オデュッセイアは彼の10年にわたる帰国譚ですが、これもジョジョ第三部的に次々現れる敵スタンドを倒していく話でした。DIOは自国民です。

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

 

書籍レビュー: 『ふたりのロッテ』 著:エーリッヒ・ケストナー

(•ө•)

 

題名だけ知っていたので興味で読みました。

ケストナーの語り口調には癖がありそれが独自性といい味を出しています。高橋健二さんの訳もじょうず。

離婚話ですので子供に読ませるのは不適当ではないかとの声もあったそうですがケストナーは次のようなたとえ話を出して、子どもこそ読むべきであると読者を説得しています。ここが面白かった。

「シャーリー・テンプルは7つは8つの子どもの時、もう世界中に名だかい映画スターでした。映画は彼女のおかげで数百万ドルも、もうけました。ところが、シャーリーがおかあさんといっしょにシャーリー・テンプル映画を見に、映画館に入ろうとすると、入れてくれませんでした。まだ年がたりないというのです。それは禁止されていたのです。シャーリーは映画をとることだけはさしつかえなかったのです。それは許されていました。それには充分の年だったのです。」

タイトルと表紙からは女の子の友情ものなのかなぁと想像していましたがまさかこんな内容の話だとは全く想像してませんでした。優れた物語です。20年くらい前に読んでればよかった。ですが個人的な理由でこの本を読むタイミングは不適切でした。さらに20年くらいしたらまた読もうと思います。

自分には児童文学が必要と思っていましたがしばらくの間読むのをやめます。

 


書籍レビュー: 昔の人の精神に感服『名著復刻 日本児童文学館 23トテ馬車 ほか5冊』 著:千葉省三ほか5名

★★★★★ヽ( ε∀ε )ノ

児童文学読まなきゃ

いくつか小説を読んで考えました。

私はそもそも子供のときに全然物語を読んでいませんでした。せいぜい道徳の授業中に内職して授業でやらない所ばっかり読んでいたくらいのものです。あとは小5の時図書室にあった「吾輩は猫である」を猫か面白そうと読んで挫折した記憶しかありません。今思えば無理に決まってるのですが。なんつーかこの、想像力の源泉のようなものが全くないんですよね。無から有を生み出すことはできません。種を蒔いておかなければ刈り入れはできません。

ですので、まずこども向けの物語をたくさん読むことからやり直さないといけないと考えました。幸い家にはこども向けの本が大量にあります。折に触れて、ガンガン読んでいこうと思います。家にある本を全部読めば、精神年齢15歳くらいまでは取り戻せるのではないかと思います。

そこでまず手に取ったのがこのシリーズ。いつだったか神保町で捨て値で売られていたもので、明治大正昭和の名著を復刻して出版したという非常に意欲的なシリーズです。執筆陣は尾崎紅葉、幸田露伴、小川未明などかなり気合の入った面々です。

家にあったのは次の5冊でした。全部読みました。

  • 28 塚原健二郎 七階の子供たち
  • 20 江口渙 かみなりの子
  • 23 千葉省三 トテ馬車
  • 25 槇本楠郎 赤い旗
  • 15 浜田廣介 大将の銅像

このシリーズ、文字のカスレ具合から巻末の書籍広告まで本当に当時のまんまでスゲェです。表紙はどれも凝っていてキレイだし、人気がないので手垢もついてないし、二重箱のものが多いので中身の保存状態も完璧。100年くらい前の本がそのまんま新しくなったような感覚です。もちろん旧字旧仮名遣いですが、こども向けなので全ルビつき。難しすぎて読めない漢字が出てきても安心です。

ふつくしい

5冊とも本当に文章が綺麗でした。明治大正昭和初期って、商業的要素は無視してこどもに最高の物語を読ませてやろうと意気込む人間が沢山いたんですね。どの作品からも、こどもに対する真摯な態度が伝わってくるのです*1。一番感動した「トテ馬車」収録の「高原の春」の文を引用します。現代仮名遣いに直します。舞台は、高原に引っ越してきた小学校高学年くらいの主人公が善ちゃんという利発そうな子と友達になり、仲良くなってしばらくした春、善ちゃん自慢の湧水を探して高原に向かうときの描写です。

丘の裾には、紐のように、水草が柔らかく茂っていた。その水路を伝わって、十間ばかり進むと、もう小さい谷はおしまいで、そこに、誰かが造ったような、きれいな泉があった。柔らかい水苔だの、青笹が、縁かざりのように丸くそのまわりを取り巻いている。右も、左も、すべすべした草丘で、ただ正面に、灌木や雑木に小松の混じった明るい林が、くさびの形に丘の上から泉まで落ち込んでいる。日の光が、水を透きて、底の砂を金色に光らしている。モッコン、モッコン、湧き上がる水が、その金色の砂を絶えず揺り動かしている。そして、あふれて、音を立てて、水草の中へ流れていく。

水は、かんろのように甘くて冷たかった。私たちは、泉に口を付けて、お腹一杯飲んだ。それから、少し離れた猫柳の蔭へ行って、草の上にのびのびと寝ころんだ。

真白な、綿のような雲が、いくつもいくつも浮かんでる。動くのか、動かないのかわからないほど静かだ。

私は山のふもとの田舎の出身なんですが、ゲーム漬けであまり自然には親しんでおらず、上記のような光景は記憶にかすかに残る程度です。こんな綺麗な描写を読まされると山の中を何時間でも探検したくなってしまいます。今後も自然描写がある度に私の中の何かが掻き立てられ想像力が逞しくなっていくかもしれません。と言うのも私は現在ほとんど家から出られない状況にあるからです。それくらいドキドキしながら読むことができました。なお、この描写の前には善ちゃんが主人公という友達ができて嬉しくてしょうがなくてひたすら走ったりばーちゃんに突進したりエネルギーに満ちていてああ眩しい眩しすぎるよと感じさせる描写もあります。「トテ馬車」はあとがきで、ほぼ作者の千葉省三さんの回想で作られていると書いてありますので、描写もリアルになるわけです。

プロレタリア童謡って

もう一つぶっ飛んでいたのは「赤い旗」です。作者の槇本楠郎さんは早くに無くなっているので、青空文庫に原本がありました。

図書カード:赤い旗

何となくマルクス臭のするタイトルですが、開けてみればやっぱり「プロレタリア童謡」を自称していました!しかも過激!

 ではみんなよ、はやおおきくなつて、きみたちも勇敢ゆうかんなプロレタリアの鬪士とうしとなつて、きみたちやきみたちのおとうさんおかあさんをくるしめてゐるやつらをたゝきのめしてくれ!

前文です。かなりアレですね。

メーデーごつこ

一人ひとり
二人ふたり
みんな

長屋ながや子供こども
みんな

おいらははらがへつた
をつなげ
まちのまんなか
ねりあるかう

メーデーごつこだ
勢揃せいぞろ

おそれな
みだれな
前進ぜんしん

誰がやるんだこれ、、

 

なわとびうた

一つとんだ
    とんだ
なにがとんだ
    とんだ
  むらからさと
  ×いはたがとんだ

二つとんだ
    とんだ
なにがとんだ
    とんだ
  ×いはたうへ
  てツぽだまがとんだ

三つとんだ
    とんだ
なにがとんだ
    とんだ
  お×の屋根やね
  かまつちがとんだ

四つとんだ
    とんだ
なにがとんだ
    とんだ
  まつ
  てんまでとんだ

五つとんだ
    とんだ
なにがとんだ
    とんだ
  邪魔じやまになるものは
  なにもかも、ほらとんだ

よくこれくらいの伏字で済んだものです。これで縄跳びしろってか!!

 

あとがきは次の文章です。

図書カード:プロレタリア童謡の活用に関する覚書

僅か數行、或は單に一行一句が直ちに×の掲ぐるスローガンに結合させ、即ち「×の思想的政治影響の確保、擴大」を結果づけるところの、「×動、×傳、組織の言葉」ともなり得るのである!

とか

とにかく政治的鬪爭に身を置く同志達は、ややもすれば從來藝術的鬪爭を輕視しがちであつた。これは誤りである。吾々の藝術は「政治的鬪爭」を前提としての「藝術アート」(技術アート)ではないか! それ故私は特に兒童に向つてはこれを強調せざるを得ないのだ。藝術の利用を考へよ! 藝術は活用されてこそ眞に「武器」となり得るのだ! そして「童謠」は兒童藝術中の粹である!

とか読むと、当時アカが取り締まられたのもやむを得ないのではないかと思いました。

 

あーもっと読まなきゃ

 

 

全巻2000円台なんて衝撃プライスですね。児童文学は死んだ。

*1:後述の1冊は方向性がアレですが真摯であることに変わりはありません


書籍レビュー: 砂穴の中にいるのは私達だった 『砂の女』 著: 安倍公房

★★★★★(°ω°)

私は小説をあまり読んでこなかったので、まず一般的に強く勧められている作品から読んでいきます。自分の好みなんてものは嫌でも後でついてくるでしょうから、当面のあいだは何も考えず受動的に「有名な」ものを読みます。という気持ちでこの小説を選びました。作者には失礼かもしれません。ごめんなさい。

結果的に、この作品には大きな衝撃を受けました。他人の言うことは聞いておくものです。内容についてはAmazon掲載の書評をそのまんま引用します。

砂丘へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められる。考えつく限りの方法で脱出を試みる男。家を守るために、男を穴の中にひきとめておこうとする女。そして、穴の上から男の逃亡を妨害し、二人の生活を眺める村の人々。ドキュメンタルな手法、サスペンスあふれる展開のうちに、人間存在の極限の姿を追求した長編。20数ヶ国語に翻訳されている。読売文学賞受賞作。

絶望と比喩と

序盤~中盤にかけて読者を襲うのは強烈な絶望感とあきらめの気持ちでしょう。私もそうでした。安倍さんの口に釣り針でもひっかけられてこじ開けられるような生々しい描写のせいです。彼は比喩が巧みで、巧み過ぎて一部ついていけないくらい想像力豊かです。

やがて、部落の外れに出たらしく、道が砂丘の稜線に重なり、視界がひらけて、左手に海が見えた。風に辛い潮の味がまじり、耳や小鼻が、鉄の独楽をしばいたような唸りをあげた。首にまいた手拭がはためいて頬をうち、ここではさすがに靄も湧き立つ力がないらしい。海には、鈍く、アルマイトの鍍金がかかり、沸かしたミルクの皮のような小じわをよせていた。食用蛙の卵のような雲に、おしつぶされ、太陽は、溺れるのをいやがって駄々をこねているようだ。水平線に、距離も大きさも分らない、黒い船の影が、点になって停っていた。

「鉄の独楽をしばいたような唸り」とか「沸かしたミルクの皮のような小じわ」などといった比喩は私にはなかなか想像できないのですが、何となく想像できるような気はします。よく思いつくよなぁこういうの。

 

 

以下の記述はネタバレを含みます。

 

 

人間社会の隠喩としての「砂穴」

主人公である男は理不尽にも穴の中に閉じ込められ実質上の監禁生活を余儀なくされます。またタイトルにもあるように、穴の住人である女との物語でもあります。女には申し訳ありませんが、私は彼女との交流の描写よりも「砂穴」そのものの構造に興味を惹かれました。

「砂穴」は外界と隔絶されていて、穴の外にいる役場の人間からの水・食料・わずかな娯楽が生活の生命線です。集落全体を守るために、穴の中の砂掻きという重労働を毎日強いられます。砂掻きをサボれば水も食料も途絶えます。帝愛グループの地下施設とあまり変わりありません。

男は穴に閉じ込められたとき、激しく抵抗し何度も出ていこうとします。穴の外でのいつも通りの人生、自由な人生を取り戻すための戦いです。

ところが断片的に記憶の中から掘り起こされる、教師として生きてきた人生、彼女(妻?)とのやり取りは全く幸せそうではありませんし、自由でもありません。

例えば自分のいなくなった部屋を想像した描写は

西陽にむれた、殺風景な部屋、すえた臭いをたてて、主人の不在を告げている。訪問者は、この穴ぐらから解放された、運のいい住人に対して、本能的な妬みをおぼえるかもしれない。

と部屋を「穴ぐら」と表現しています。あまり引用が多いのもよくないので他は省略しますが、明確に意識はされないものの、思い出せば思い出すほど彼の人生は既に穴の中に入っていたと言えます。砂穴から脱出して自由を手に入れるつもりだったのに、自由なんてものは元からなかった。男が穴の生活に慣れていくのは必然でした。

自由の象徴としての「溜水装置」

そして彼はひょんなことからもっとも重要な生命線である「水」を作り出す仕組みを手に入れました。彼はこれを「溜水装置」と名付けています。

水を生産できるようになった彼は興奮します。これで外からの水の配給を止められることによって命を脅かされることはなくなるからです。これは外の世界で決して得ることの出来なかった大きな「自由」の一つでしょう。自由を手に入れた彼は、ラストで偶然逃げ出すチャンスが与えられても逃げ出すことを選択しませんでした。

ちょっと納得できないのは、食料を生産できないから外側からの兵糧攻めにあったらやっぱり屈服せざるを得ないのではないかと思ったことです。ただ、もう少し考えていくと、「溜水装置」で十分なのかなとも思いました。

ほんの一かけらでも

私たちは穴の中に閉じ込められた存在です。人生は砂のように流れていきますし、どれだけ自由を求めたって、稼いだり生産したりしなければ生きていけません。仮に不労所得がいっぱいあってそれらから自由になったとしても死という限界を超えることは決してできません。人として生を受けた時点で穴の中にいるも同然です。

しかし我々は自由を欲します。他人や世界に支配されるのを嫌います。それがどれだけ制限のある自由であろうとも、不完全であろうとも、パン屑ほんの一かけら分であろうともよいのです。

女が穴の生活で欲したのは鏡とラジオです。

「本当に、助かりますよ……一人のときと違って、朝もゆっくり出来るし、仕事じまいも、二時間は早くなったでしょう?……行くゆくは、組合にたのんで、なにか内職でも世話してもらおうと思って……それで、貯金してね……そうすれば、いまに、鏡や、ラジオなんかも、買えるんじゃないかと思って……」
(ラジオと、鏡……ラジオと、鏡……)――まるで、人間の全生活を、その二つだけで組立てられると言わんばかりの執念である。なるほど、ラジオも、鏡も、他人とのあいだを結ぶ通路という点では、似通った性格をもっている。あるいは人間存在の根本にかかわる欲望なのかもしれない。

男は反発するも納得しています。鏡は自分の情報を得られる、ラジオはほんの少しでも外側と繋がることができる道具です。

水を生産する「溜水装置」も圧迫された生活の中の不十分な自由の一つですが、それを得られることのなんと素晴らしいことでしょう。

我々の人生という穴の中の絶望的な状況に鑑みれば、わずかでも自由を得られることは大きな収穫となります。それは未来を感じさせるものです。期待です。あとがきでドナルド・キーンさんが「なぐさみ物」と表現しています。いやそりゃ本質的にはそうなんですが、そんな軽いもんじゃないでしょう。私はこの装置に「なぐさみ物」以上のものを感じました。単に穴の生活に慣れただけだったら、彼はチャンスが来た時、即座に穴から出ることを選択するはずなのですから。

 

作者の生物学に関する造詣が深すぎると思ったら元医学生だったんですね。納得しました。この作品は折に触れて読み返したいですね。

小説面白い!まだまだ面白い作品が日本にも海外にも大量に転がっていると思うとワクワクします。

 


書籍レビュー: こどもたちに捧ぐ『二十四の瞳』 著:壺井栄

★★★★★

8月ですので

戦争関連の小説を一つセレクトしました。小説はまず名作から読んでいくつもりです。本作は何度もドラマ化・映画化されている超有名作ですのでいまさら感がありますが、原作は読んだことがありませんでした。

作者の壺井栄(1899-1967)は香川県の小豆島出身。本作品中の舞台は「瀬戸内海」の岬の町としか書かれておらず詳しい場所は明記されていないものの、映画ではどれも小豆島が舞台となっており、私も木下恵介版の映画を見たことがあるのでやはり小豆島を思い浮かべます。

中野の商店街で親しまれた“二十四の瞳のおばちゃん”壺井栄|文春写真館|「文藝春秋」写真資料部|本の話WEB

↑壺井さんのすっごいいい写真!!

12+1通りの人生

昭和3年、瀬戸内海の寒村に赴任した大石先生は1年生12人を受け持つことになります。大石先生は1年経たないうちにある理由で彼(女)らのもとを去りますが、折に触れて何度も彼(女)らと再会します。小さい村ながらも立場や境遇の異なる12人は、それほど長くない作品にもかかわらずみな個性的に書き分けられており、みな魅力的です。12人は時代の濁流に巻き込まれ、12通りの人生を歩みますがこれがまた切ない。戦争だけではなく貧乏や当時の社会制度が容赦なく襲い掛かり彼(女)らにとって大きな試練となります。私は年齢的に大石先生の立場で物語を見てしまいますので、胸潰れます。大石先生自身も、辛い思いを一杯します。

昔のドラマや映画ではいつもそうですが女性の扱いがひどいですね。家が傾けば遊女として売られるし、20になればハハキトクの偽電報で呼び戻され嫁にやられるし、40に満たない女性教師は「老朽」と呼ばれ退職をちらつかされます。まだ戦後70年しかたっていませんから地方にそのような風習が残っていたって全く不思議はありません。

かといって戦時中は男の扱いも悪辣極まります。幼少期から国家のプロパガンダで大きく方向付けられ、日本人は末端まで無駄に思想が行き渡りますからぼんやり疑問を持っている人も周りの人間によって退路が断たれ、使い捨てで次々と戦地へ送られ死に、英霊という名の個人を抹殺した記号となって帰ってくる。本作も元生徒が何人も詳細を語られることなく死にます。基本的に死にたい人はいなかったと思います。みな架空の物語の力によって自分を強引に納得させ、死んでいったのでしょう。

マスノ

登場人物では12人のリーダー格だったマスノが一番好きです。終戦の翌年、戦場で失明して除隊となった磯吉(あだ名:ソンキ)にかけた次の言葉に感動しました。

「おまえがめくらになんぞなって、もどってくるから、みんながあわれがって、見えないおまえの目に気がねしとるんだぞ、ソンキ。そんなことにおまえ、まけたらいかんぞ、ソンキ。めくらめくらといわれても、へいきの平ざでおられるようになれえよ、ソンキ。」

こんなことを言えるような大人になりたい。昭和3年で1年生ですから彼女はこの時25という設定、私よりも随分年下です。。

 


書籍レビュー: 自伝的耽美うつ病小説『車輪の下に』 著:ヘルマン・ヘッセ 訳:秋山六郎兵衛

★★★★★

小説もたくさん読んでみたいですが私は漫画ばかり読んで小説をあまり読んでこなかったので、古典的名作を中心に読んでいこうと思います。

日本では有名だが実は作者が若いころの作品

著者のヘルマン・ヘッセ(1877-1962)は20世紀前半のドイツ文学者の代表選手です。本作のタイトル「車輪の下」は誰もが一度聞いたことがあるのではないでしょうか。私も聞いたことがあったのでこの本を手に取りました。日本ではおそらく、この作品が一番有名であると思います。

作者の自伝的要素の強い小説で、主人公ハンスが神学校の試験を受ける場面の描写などはほぼ事実に即しているそうです。しかし実は本作は1905年、弱冠28歳の時に書かれた作品で、ヘッセの作品が本領を発揮するのは第一次世界大戦後だそうです。ヘッセの作品は著作権が切れているので、今学習しているドイツ語の語彙が4000語くらいになる3年後に本作の原文を読んでみたかったのですが、Project Gutenberg には本作の原文がありません。ということはやはり、海外ではあまり重要な扱いを受けていないということなのですね。

主人公がぶっ壊れていくさまが美しく、訳も秀逸。

以降はぼかしますが少々のネタバレになります。

 

 

主人公ハンスは国家による方向づけられた学校教育という巧みなる社会の誘導に疑問を抱き、神経を病み、ドロップアウトしていきます。現代的にはうつ病に相当するでしょう。ヘッセの学校への反感が十二分にこめられた描写が多数見受けられます。ヘッセ自身も同じように本当にドロップアウトしているので、人生の総復習と自己正当化のために書いたとも解釈できますが、実際のところ冷静に学校教育を観察すればこのように感じるのはむしろ健全であると私は感じます。

私も大体同じように大学でドロップアウトしているので、ハンスには並々ならぬ共感を持ちました。これは通勤電車の中で読んだのですが、中盤で彼が病んでいくシーンはあまりに共感し過ぎて昔が思い出され、町中ボーっとしながら会社に向かい帰宅途中も抜け殻のようになりながら歩いていました。

精神病は外から見ると美しく見えます。無垢な人間が蹂躙されて可哀想可哀想!すてきキャー!ヴィジュアル系バンドに病んだ系の演出が多いのも分かります。でも当人にとっては単に何もかも投げ槍になっているだけなのです。防衛反応として気持ちや感情にシャッターをして、安全な心のプールの中にふよふよ浮いていたくなってしまうにすぎません。さっさと出てこなきゃダメ。

まだ彼が神学校を受ける前の序盤のシーンから引用します。勉強に疲れたハンスが寝るだけの場面なのですが鼻血が出そうなほど美しいです。

今もまた彼は、この狭い部屋には自由な、清々しい大気がこもっているかのようにほっと一息して、ベッドの上へ腰を下ろし、夢想と希望と予感のうちに数時間をぼんやり過した。明るい眼蓋が徐々に大きな勉強に疲れた目の上へ落ちかかって、それがもう一度開いて瞬きし、ふたたび閉ざされた。蒼白い子供の顔が痩せた肩へ落ちて、細い腕は疲れて伸びた。彼は服を付けたまま眠り込んだのである。そして、母親のように優しいまどろみの手は、落ちつかぬ子供の胸の波を沈め、美しい額の、小さな皺をかき消した。

秋山六郎兵衛さんによる訳はおそらくマイナーです。amazonでは高橋健二さんの訳がトップに来ますね。どちらの訳が優れているのかはわかりませんが秋山さんの訳は簡潔かつ美しく、私はとても気に入りました。

 

 

関連書籍

 

デミアン (新潮文庫)

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ヘッセが精神危機を乗り越えた後に書いた作品です。読んでみたい。

シッダールタ (新潮文庫)

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 中期代表作。映画にもなりました。

ガラス玉演戯 (Fukkan.com)

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 後期の最長編。これも読みたい。