javascriptとPHP

プログラマーとして働いている。
今の職場ではC++、C#、VBしか使わないので、9年もこの仕事をやっているのに最新技術について何も知らない。
そこでJavaScript、PHPを独学して、web系のプログラムもこなせるように特訓することにした。

4週前の日曜にxamppで開発環境を作り、PHPで、あるサイトのhtmlファイルを解析して時刻表や電車のデータをMySQLに保存できるようにした。
3週前の日曜には、JavaScriptの仕様を調べて、CreateJSを使用して画面に駅を並べ、●の文字を電車として走らせられるようにした。
2週前の日曜で、ajaxを使用してSQLを定期的にコールし時刻表に従って電車を走らせるようにした。
先週、ようやく一通り動作するようになった。今週は路線を増やし、ユーザーインターフェースも付けた。

http://otttoshan.miraiserver.com/

JavaScriptの変数は自由度が高すぎる。まず型がほぼ無い。なんでも代入できる。関数すら当たり前のように代入していろんな所で使える。C++だったら型付けして関数ポインタ使って、、と面倒な処理も1行で書けてしまう。firefox+firebugを使えばデバッグも楽。
今後も使い続ける言語となるだろう。


Cubase

Cubaseを導入した。今まで使っていたReasonは拡張性に欠けエフェクトも機能が低く、wav編集機能が絶望的に少なくもはや手詰まりだった。早速、有り合わせの楽器で何ができるか試してみるつもりだ。


契約

賃貸契約が無事に済んだ。これで引っ越しできることはほぼ確定した。
田舎に来てから5年間。何度も東京に出ようと多数の物件を見た。5年の間に30件程度は見た。いずれも欠点があり、高額の初期費用を払うに値すると判断できなかった。
ようやく念願が叶い、感慨深いものだ。


引っ越し

今日、引っ越しの資金としてカードローンで借金した。明日、東京の賃貸住宅の契約をする。GWに引っ越す予定、ということになった。

東京から神奈川県の西の果てに移住して4年と11か月。配偶者の親のために田舎に引っ越した。市民農園を借りて畑も耕した。田んぼも借りて自給しよう、と思っていたところ、原発が爆発した。すぐ近くの茶畑で高線量が観測された。畑作稲作は諦めた。義理の両親とも越してしばらくすると疎遠になっていたので、田舎にいる意味はなくなった。
勉強すると疎外される土地柄で、子供の教育に悪い。都心のターミナル駅まで約90分。田舎で習い事をしたくても周りにないし、東京は遠い。問題だけが残った。
はじめに引っ越した集落で猫を拾ったため住める物件が限られ、東京に戻るチャンスがつかめずズルズル時が過ぎて5年近くになった。やっと見つかった物件も、家賃が現在の倍以上で、非常に苦しい生活になることは間違いないが、それでも子供たちのためには行かねばなるまい。


日記が消えた

5年前に買った仕事用PC(vostro 220s)のOSはWindowsXPで、間もなく有効期限が切れる。来月の引っ越しを控え、新しいPCを買うほどの余裕はなかった。妥協案として、Windows8.1を購入することにした。今のままでも何とか動作するスペックだ。
良い機会なので要らないデータを一掃して環境を一新しようと、外部HDDやBDに必要なデータを押しのけ、これまで使っていたHDDをフォーマットしてWindows8.1をインストールした。
しかし、オフラインで2012年10月から書いていた日記のバックアップをうっかり忘れてしまっため、HDDの参照されない領域のどこかに行ってしまった。

日記はあると役立つ。いつ何があったか後に参照でき、考える材料になる。約1年半分の日記が消えてしまったのは痛い。
なので、今日からweb上に日記を書くことにした。これなら、PCが突然壊れても消えない。


模倣、受動、オリジナリティ

自分の言葉で話さない人間が増えているという。私もその一人だと感じている。
私は、今に至るまで言葉も行動も並べて模倣することにより生きてきた。
何かを教えてもらったことはない。ただ人と同じことをすることで過ごした。
親がゲームをするのでゲームをするようになり、友人が恋人を作ったという理由で自分も作ろうとし、受験勉強のシーズンと言われればそれに乗っかって勉強した。
結婚して大学を中退して親に反発し、ここで初めて独自の生活を送るようにも思ったが、振り返ってみればその後の生活は家族に合わせているだけだ。
もともと自分の意見はなかった。ただ周りに従って生きているだけだった。

このように受動的であることが焦げ付いた習慣になっていれば、自分の言葉は生まれない。
どこかで聞いた言葉を切り貼りして日本語を話し、他人の意見を自分の意見と思い込んで述べることしかできない。

とはいえ、厳密にはすべての人間は自分の言葉など持っていない。任意に文字を取ってきて あええとぶごれんもじゃのを と言っても誰にも通じない。他人に通用する言葉は最低一度は使われたことのある言葉なのだから、自分のものではない言葉しか人間は話せない。
問題は言語の構築の方にある。言葉の組み合わせや流れのパターンは無限にある。
誰でも使えて色も見知っている鉛筆で無限通りの絵が描けるのと同じだ。
自分の言葉で話せる、とは言葉の選択と組み合わせが独自のものであることなのだ。

独自の考え方や生き方は、それまでに積み重ねた人生によってしか生まれ得ない。
独自性は受動的なままでは生まれない。形成的(これも借りた言葉)に生きなければならない。インプットとアウトプットのバランスが取れるようにしないといけない。


言葉2

言葉は表象であり、媒介である。言葉自身は、物事そのものを表さない。ある物事にアクセスするためのキーとなるにすぎない。
自分が発した言葉を他人が聞いて、自分と全く同じものを思い浮かべることはまずありえない。それどころか、自分自身、ある言葉に対して抱くイメージは時と場所によって変化する。
しかし我々は自分と同じイメージを抱くであろうと期待し、またそのように努力して、毎日言葉を発する。

言葉は表現だ。他の人間に、自分の抱くイメージ、感情、抽象的概念、物語などを確実に伝えるために表現する。
ある物事を正確にとらえ、自らの意図したイメージを喚起するための言葉を丹念に選び、精巧に組み立て、発信する。素材となる言葉が不正確であったり構成が悪ければ、他人には伝わらない。誤解を招く。我々はみな職人であり、芸術家である。


言葉とイメージ

ある言葉から与えられるイメージは人によって質も量も異なる。例えば空、という言葉を見た・聞いたときに喚起されるイメージは千差万別だ。
イメージは絵、音、匂い、温度、言葉などで表現される。そしてそのイメージからまた言葉が生まれ、文章や会話が連鎖的に成立していく。イメージが貧弱なら、言葉はしぼんでいって尽きて終了する。
言葉からどれだけのイメージを引き出せるかは、言葉を発する・聞く人間の言葉の蓄積、イメージの蓄積に依存する。人間そのものが問われている。
会話は化学反応みたいなものかもしれない。ポテンシャルの高い人間同士がぶつかれば、爆発的に言葉が生まれるだろう。相手にとってふさわしくない言葉を選べば、有毒なガスが発生するだろう。


正義

人間は自己の正当化に大きなエネルギーを注ぐ。自己保存、自己防衛のためだ。誰だってアイデンティティがぐらつくのを好きではない。安心して平穏な日常を送りたい。
正当化には種々の方法がある。よく見られるのが、自らに権威を与えることだ。「世界一になれば他人が文句を言わなくなる」「教授であるこの私の判断が間違っているわけがない」など。虚栄心とセットになることが多い。外面的な鎧をまとって内面を隠し、権威の威光によって相手の目を曇らせる。大抵の人間はひるむが、ときどき中身を見通せる人間(賢人)や権威が見えない人間(バカ)がいるので通用しないこともある。

続く


発見、体験、解像度

自然が多い土地で育った。山がいつも見える。虫も木も川もあった。でも自然についてあまりに無知だった。自分は自然の中にいて自然を発見していなかったのだ。
山を見れば木が生えている。雲がかかっている。森に無数の生物が暮らしている。春夏秋冬で色も生物も異なる。朝と夜でも違う。雨が上がった日は緑色が映える。
これらは発見して初めて、知識や経験となる。山が物理的スペースを占めていても、それを発見しない人間にとっては存在していないことに等しい。
あらゆる物事は無限に分割することができ、視点も無限に存在する。どのような物事でも単一ではありえない。
毎日の生活の中で、どんな単純に見える物事の中にも発見があるはずだ。
ぼんやり見ているだけの世界は単純で安定しているが平板で多様性に乏しく、そこから思考も思想も生まれない。
生活を見るための解像度を上げねばならない。あらゆる物事からできるだけ多くを感じ取り、組み合せ、混合し、総括する。
材料が多くなくては思考できない。材料は多いほどよい。混ぜる技術は訓練によって体得できるが、その前提として、物事を見る目が鋭くなくてはならない。