ファイナルファンタジー日本語

昨日外国語のリスニング練習をしている時にふと思った。
我々は言語を所与のものとして当たり前のように扱っているが、外国語を見聞きすると分かるように、言語は解釈できなければただの音または黒い線の羅列だ。言葉それ自体は単なる表象・記号であり、空虚なものだ。光や熱・電気・力と違い物理的化学的な変化を直ちに起こすものではない。そこに意味を見出すために必要なのは多数の共通了解だ。言語は人類史上最古かつ最大のフィクションなのだ。
まだものを全然知らない高校生のころ、故・河合隼雄さんが「人間は物語が無いと生きられない」と言っていた。当時はアホだったので「宗教が無いと死ぬってことかね」ぐらいの意味に考えていた。確かに宗教も物語の一つだが、当時は言語自体が物語であることに気が付いていなかった。今ここにこんな風に文字を並べると何らかの意味が生じる。各人にとって自分の文脈に照らし合わせて様々な解釈がなされる。ちょっと文字を並べるだけで人を勇気付けたり傷つけたりする。こんな不思議な作用を可能にするのは、言語のファンタジー性だ。ある文字が特定の意味を表すという多数の人間の幻想がなければ不可能だ。
我々は幻想を操り、幻想の中に生きている。それで社会が成立する。なんと不思議なことなんだろう。そして日本語圏に生まれ日本語を身につけてしまった私は、一生日本語という枠組みによるファンタジーから逃れられない。体に「痛い」→いたい、とか「うんこ」→きたない、「あんたなんか嫌いなんだから!」→ツンデレ、などといった条件反射が染み付いてしまっている。なんかすごく悔しい。社会に規定されるなんて悔しい。自由になりたいが、言語から自由になるということは情報の伝達可能性の放棄だから、社会生活は不可能となり(毎日勝手に金が入ってくる人間は別)全く現実的でない。くやしいのう。
コミュニケーション不全、KY、狂人、不思議ちゃん、統合失調症、これらのレッテルを貼られるべき人間でさえ、言語という特定の集団の中で通用するフィクション装置を彼らの中に持っている。彼らの言語世界が共通了解的世界と若干ずれていたとしても、大部分は重なる。そのずれが無視できない量になったところで、集団から排除される。空気読めないと言われる人間でさえ、おそらく99%は空気を読んでいる(=言語世界の背後にある共通了解を読んでいる)だろう。
脳内の言語世界・言語的実装が全く異なる人間、つまり母国語が違う者同士でも、通訳・翻訳・カタコト・身振り手振りなどのインターフェースさえ機能すれば辛うじて共に生きていくことができる。これは「言語世界が存在するためそこに秩序が存在し、その秩序は大体我々のものと等しいか、差異に目をつぶれる程度のもの」という幻想を前提とするだろう。もっとも「中国人はカス」「韓国人は犯罪者」などという信じられない偏見が蔓延していることからすると、幻想は機能していないようだ。なるほどドラクエ派とFF派は相容れないかもしれない。会社は合併したけど。ここいらはさらに考察が必要だ。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。