11/26 トーダイに書き換えました
11/29 Hさんの言及を忘れていたので加筆
前回記事
トーダイに入った私は増長しました。周りもみんな増長していました。開成とか麻布とかトーダイに行ってアタリマエの人間を除くと、トーダイは地方の自称トップ高からぽつぽつと出てきた人間が多いところです。駒場は歩いて渋谷に行ける場所ですので、初めて見る金が川のように流れる場所である都会も自意識を肥大させる一因となります。「俺はトーダイなのに~しちゃうもんね~」という思いで、全裸で噴水に入る、公園ででかい花火をぶっ放す、ひたすら酒を飲ませたり飲んだりするとかそんなことに夢中になります。高校3年間、人によっては中学受験から9年間我慢してきたことを爆発させる場でもあったでしょう。駒場祭という秋に行われるイベントは自意識の塊でひどいですよ。彼らがキモイのは、バランスよく脳を発達させてこなかったからだと思います。もちろん私もそうでした。年を取って経験を積んでいくと50歳くらいで随分とキモくなくなるようです。
私はインカレの混声合唱団に入りました。同じ高校の先輩から男声合唱団に誘われましたが、別の部に入ってしまいました。もちろん下心からです。先輩ごめんなさい。
大学に入ると授業についていくのがきつくなりました。何故なら講義では問題演習をせず、延々と論理展開をしていくだけだからです。問題を解いて、その手続きを記憶することを繰り返してきた私にとっては「新しい概念」が苦手だったのです。受験勉強とは必ず学習指導要領の範囲内の問題が出題されます。その範囲は、非常に狭いものです。大学で習うことの一部分を取り入れる場合は、必ずヒントがつきます。音ゲーの類似ばかりで恐縮しますが、音ゲーはせいぜい10のボタンくらいしか使用しません。10のボタンの範囲を組み合わせる方法は限界があるため、視覚と反射のサイクルを自動化することができます。あれと似たような頭の使い方をしていたため、ボタンが20、30とあれよあれよと増えていく大学の講義は苦しいものでした。私は数学も物理も何もわかっていなかったことを突き付けられました。比較的簡単なはずの相対論や記号論理学の授業はすぐ挫折し、講義に出なくなりました。
講義は一方通行ですから分からなくても後戻りができません。今思うと、私には講義は向いていません。受験勉強時代、最も成績が良かったのは唯一予備校の授業をサボって問題集で自習していた物理でした。講義は人のペースですが、自学は自分のペースでできるからです。他人のペースに合わせることほど苦痛なことはありません。宿題ができなかったのも、自分のペースと合わない量・質の課題を押し付けられるからだと考えています。
同じ高校から上がった女子が時々恋愛相談に来ました。Dさんとします。DさんはE君が好きなんだけどつれない。そうかいそうかい。ラブひなの成瀬川に彼女を重ね合わせていた私にとって受験勉強のモチベーションでした。ある日DさんはとうとうE君に振られてしまった。これを好機と考えた私は傷心のタイミングで彼女に告白しOKを貰いました。告白って変な制度ですよね。中高大学生の皆さんにとってこれが一大イベントであるのは
- つまんねぇ日常から非日常に移るための区切り、けじめとしての意味
- OKなら持続的な多幸感、キャンセルなら不幸のどん底というハイリスクハイリターンな投機的ドキドキ感
- 「告白」という単語の含むなんとなく重大な気がする雰囲気
これらが「告白」という商品の魅力を高める要素だと思います。みなさん入学式とか卒業式とかああいう儀式めいたもの好きですよね。ラノベやアニメは学園モノが多く、必ず「式」が一つの場となってイベントが発生します。みんなで協力して出すあの荘厳っぽいような雰囲気。一人一人がそれに同調しなければいけないような圧力。これと同じように「告白」という儀式も国民の皆さんの協力によって成り立つ共通了解的な儀式なのです。だってバカ臭くないですか?「好きです」って言葉がどうして呪文のような効果を持つのですか。別にそんな段階踏まなくてもいいんちゃう?
とは当時の私が思っているわけもなく、ただ周りの人間の真似をすることしか生きるすべがなかったので、やはりこの手続きを踏むことにしたのでした。そして、彼女は2週間後に「やっぱりE君が好きだから」と言って去っていきました。私は2週間分の現実逃避に使われただけだったようです。Dさんは1か月前くらいにはてなブログの「こんなブログもあります」の所に偶然見慣れた顔+実名で出てきてギョッとしたこともあるのでぼかして書いてますが、幸い、ここは弱小ブログなのでばれることはないでしょう。元気でやっているようです。へこむので中身は見ていません。
ダメージを受けた私は合唱団に精を出しますが、やはりそこで知り合った女子から恋愛相談を受けるのでした。Fさんとします。私の方も毎日Dさんの相談を持ち掛けていたからギブ&テイクではありました。FさんはG先輩が好きでした。そうかいそうかい。G先輩は私のパートの先輩でしかも私の志望学部に所属していたのでよく話す間柄でした。合唱団にはサークル恒例のイベント夏合宿がありますがそこでFさんとG先輩がいつのまにか相思相愛になっていましたよかったね。あれ?よかったのかな。
すっきりしない気分のまま夏合宿が終わり、元演劇部とバレたことが原因で参加させられたサークルの別動隊、子どものために歌や劇を上演する20人程度のサブユニットの活動が始まりました。FさんもG先輩も参加していました。そこはたまたまHさんの地元でした。ある夜にHさんは「6君ってFさんのことよくわかってるよね」というのです。私の名前を仮に6としました。何だーすっきりしないのは私Fさんが気になってたからなのねーっておいマジか。そりゃまいったな。若さというのは、思い込みを殊の外大きなエネルギーに変換しがちなものです。私はブラックホールの中にでも入ったような気分になり、枕の中に潜って出てこなくなるなどの奇行を繰り返しつつ、無駄に心を傷つけながら公演を終えました。そもそも元演劇部っつったって演技が得意なわけじゃないし、人前に出ることは超苦手なのだから二重にストレスがかかって本当につらい公演でした。Fさんはその後部活をやめましたが、実は一家が全員音楽人だったり会社経営してたり異世界の金持ちだったので、もう人生が交差することはないと思います。
Hさんは後に私を突然呼び出してサークルの愚痴を言ったり(私が役職についたのにサークルを抜け出したからだと思う)、私の結婚時に一人だけ口調が変だったので何か気持ちを抱いていたのではないかと思っていますが、その後名前で検索をかけて見たら地元に帰って教師になってしまったようなので確かめるすべはありません。
半年の間に疲弊した私を待っていたのはフランス語で「不可」を取ったことでした。トーダイには進学振り分けという制度があり、学科平均点が高くないと3年生以降に希望の学部に進めません。私の志望学部はそこそこ平均点が高く、必修科目の外国語の点数が低いと進学にかなり不利です。 2学期以降大幅に巻き返す必要がありました。
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私はこいつを購入して死ぬ思いで復習しました。すると熱が出ました。
もともと体力がない上に自炊もサボりがちで半年間適当に食事していたツケがたまったのでしょう。2週間寝込むハメになり学習が大幅に遅れました。
私は中高のときしばしば仮病で学校をずる休みしました。だいたい月1度くらいの頻度だったと思います。学校というシステムは、自分のリズムとは関係なく一定のビートを押し付けるものです。位相がずれたリズムは疲労のもととなり、時々リセットする必要がありました。
2年間の集中した受験勉強で疲弊した後に新しい環境、人間関係の破綻、慣れない公演、体力の低下と学習リズムへの不適応で休む暇もなかったのでしょう。ここでなにもやる気が起こらなくなりました。高騰した株価は必ず急落するように、増長した気持ちは極度の劣等感に変わるものです。
私は学校に行くのをやめました。そういえば地元の友達I君がラグナロクオンラインの話ばかりしていたことを思い出しました。
I君にはネトゲは人生食いつぶすからやめなよ、と言いつつも内心気になっていたゲームなので、試しに初めて見るとみるみるハマってしまいました。このあと1年ほど私はラグナ廃人となります。持ちキャラはアサシンとプリースト。アサシンは金を稼がないと成長限界が来るので途中であきらめ、プリーストを使ってパーティーで経験値を稼ぐ作業をずっと続けていました。食事は学食よりもさらにグレードを落としてコンビニ弁当で固定です。いまでもあのサンクスとハンバーグ弁当は覚えています。I君は高専生だったので、ラグナ廃人でも教授のプッシュの力でトヨタの関連会社にねじ込まれたそうです。ずるい。あ、でも奇跡的にこのブログ見ていたら連絡ください。
こんな生活をしていると根本的にむなしいので、上の本(改定前)に騙されてパキシルも飲み始めました。パキシルは酒と相性が悪いのですが、私はやけくそでわざと酒と同時に飲んで酩酊状態を楽しむこともしていました。寂しいので一人ではやりません。必ず宴会などの席でやりました。この頃はわざと変なことをして他人の注意を引く行動がピークに達していたようにも思います。抗鬱薬は本当に必要な人に投与するもので、私のように病名が欲しくて行った人間に投与するものではありません。
医者には親にも報告しろと言われたので地元から親が出てきました。年末~正月は地元で過ごし、成人式に出て地元の友人に会ったりもしましたが、居心地が悪くまた東京に一人で戻ってラグナロクをして過ごしました。私はバイトをしてなかったので親のカネです。バイトとは見知らぬ人間と関わることですので、初対面に弱い私にとって世界の向こう側の存在でした。高校でバイトやってる人間ってどんな超人なんだよ!?と思っていました。
音ゲーも大学に入って以来再開したので、あちこちのゲーセンを行脚したりもしていました。このころポップンミュージックも始め、レベル44(当時は38)くらいまではこなせるようになっていました。もちろん親のカネです。そんな風にして音ゲーとラグナロク漬けのまま春が来ます。眠くなってきたので次回に続きます。ちょっと勢いで書きすぎたので、あとでもう少し考察を入れるかもしれません。
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