★★★★★
1991年出版の本、編者は元社民党党首の福島瑞穂さんです。彼女が国会議員になる前の著作ですね。福島さんは弁護士の海渡雄一さんと事実婚で子供を産むという選択をしています。話がそれますが「事実婚」という言い方は「婚姻」に囚われていて嫌ですね。1991年時点では民法900条非嫡出子に対する法定相続分が嫡出子の半額であるという差別が残っており、福島さんはこれにずっと反対していました。2013年9月4日に違憲判決が出て法律が改正されるまでの経緯をぼくは知らないので、いずれ調べてみたいと思っています。
本書は福島さんと、非嫡出子である落合恵子さん・尹照子(ユン・チョジャ)さんとの対談が第一部、複数の非嫡出子の手記が第二部、福島さんのエッセイが第三部、という構成です。
とりわけ衝撃的だったのが落合恵子さんとの対談です。落合さんのことはクレヨンハウスに何度か行ったことがあるので名前は知っていましたが、どのような方かは全く知りませんでした。落合さんの父はのちに国会議員になる矢野登という人で、落合さんの母とは同居せず、数年に1回落合さんと会う、というような関係だったそうです。
落合さんは父親のことを椅子に例えます。いつも同じところに椅子があれば、ある日突然それが消えたときに、椅子がなくなったことを意識する。でも初めから椅子がなければ、椅子がなくなったとは思わない。そんなものだと言っています。
落合:私が「普通の」とか「普通」というスタンダードに抵抗を覚えるのは、「普通」というときの基準が多数派の意識に成立していることであり、それ以外の人にも、それぞれの「普通」があることを切り捨てていることにあるのね。同じく、ある人の不自然が、ある人には「自然」であることもある。そして私の生まれ育った環境では、父がいないことが私の「自然」だったということです。(P11)
そして、彼女は生物学的な親子関係、いわゆる「血」は全く重要ではなく、「共に育ち合い、共に生活してきた記憶も感覚もない(P12)」人を「父」を呼ぶことは不自然だった、と言います。似たようなことはもう一人の対談者である尹さんや手記を書いてくれた人達も言っていました。
落合さんは親子関係も対等であるべきと考えます。
落合:子どもは愛情をそそぐ対象であり、それゆえラブ・チャイルドだと考えられるのは抵抗あります。つまり、子どもはそこでも、大人から見れば受け身の立場になるでしょ?男から見れば女がそうなるように、子どもと大人の関係性も、たとえ愛情においても、上下になってしまう危険性は注意深く見ていかなきゃいけないと思う。すべて上下はイヤ、なのね。
福島:愛情をふりそそぐという点ではどこかに同情があるかもしれない。
落合:本を「与える」というのと同じ言い方。上から下へという形は、どんなに善意から発したものでも、ね。
他の所でも何ヶ所か記述があるのですが「同情」「思い入れ」も対等な関係ではなく、力や立場の上下を前提とするものなので、落合さんはこれらを嫌います。
ここからは個人的な話です。
前の家では子どもとの関係は対等ではありませんでした。元配偶者の気に入らない学校はやめさせ、家に閉じ込め、必要な教材や本を「与えてやる」という一方通行な関係でした。子どもは親の所有物であり、自由は全くありませんでした。で、ぼくはその一方通行の通路にさえ入ることを許されなかったので、関係性すらありませんでした。
時間が経つにつれて、前の家の子どもたちの「自然」にぼくは存在しなかったことになるのでしょう。それはそれで、仕方のないことですね。
婚外子のことを調べるつもりでしたが、気持ちのベクトルが別に向いてしまった本でした。
Amazonには「婚外子が蔓延すると近親婚が増えるから遺伝的に問題がある、だから法律上禁止されているのだ」といった支離滅裂かつ差別主義的なクソレビューが書かれています。