書籍レビュー: ローマ人はオープンすぎ!『ローマ人の物語 (2) ― ローマは一日にして成らず(下)』 著: 塩野七生

★★★★★

全43巻中の2巻、本書では紀元前453~270年ごろまでを扱います。文庫になる前は1・2巻で一つの単行本でした。文庫は持ち運びやすくとても助かります。

1・2巻ではただの一地方都市に過ぎなかったローマが王政を経て共和制に移行し、領土を拡大しながらケルト族やエピロス王ピュロスという難敵と戦いつつ、ついには南イタリアを制圧するまでの話です。

歴史面白い!面白いよ!なんで今まで全く学ぼうとしなかったんだろう!あほじゃないの私!?

ローマの開放性

本書で一番印象に残ったのはローマ興隆の要因分析です。結びで簡潔にまとめられています。

ローマはギリシャよりも頭脳は弱いし、スパルタほどの軍事力も、隣国のエトルリアほどの技術力もありませんでした。しかし結果的には彼らを凌ぐ大国家となっていきます。

ローマには他の国家にはない大きな特徴がありました。それは国家の開放性です。ローマ人はオープンでした。例えば誰でもローマに住めば市民権を得ることができました。誰でもです。ギリシャは他民族をバルバロイ(蛮族)と呼び、他国で生まれた人間には一切市民権を与えません。中国にも中華思想(自分以外の国はみんな野蛮人)がつい最近までありました。

当時は征服した都市を滅ぼすのが常識でした。しかしローマが周辺の部族と戦った場合は、相手の部族を皆殺しにするどころか、彼らの民族の存立を認め、ローマに迎え入れます。彼らには市民権を与え、有力者は国家の幹部にすらなることができるように計らったのです(もちろんその部族が裏切った場合など、例外もありました)。このように周辺の民族をどんどん同化し、技術も知識も取り入れ、不断に拡大再生産を続けるローマには常に新しい風が吹き、硬直して腐敗していきません。なんだかM&Aを行っているようです。多様性を認めるが国家への忠誠を本筋とするところはアメリカとも似通っています。数々の歴史家がローマの興隆の原因を「開放性」に認めました。

ローマ人の美徳

もう一点印象に残ったのはローマ人の「美徳」についてです。彼らは名誉心を何よりも優先しました。まるで武士のようです。

ローマ人は農耕民族で、大地主である貴族と小規模自作or小作人の平民が存在します。貴族と平民は土地の分配をめぐって険悪な関係にありました。不満を持つ平民は兵士募集に応じないなどのストを行います。古代は四方八方から断続的に多民族が攻め込んでくる時代ですから兵士がいないことは即国家存亡にかかわることです。ストは有効に土地問題を解決するように思われます。

しかし彼らの名誉心がストを無効化してしまうのでした。

敵が国境に迫っていると聞けば、不満も忘れて兵役に志願した。友軍が苦戦に陥っていると知れば、戦線参加拒否をつづけることができなかった。その結果、勝ってしまうのである。

さらに、貴族が汚職にまみれ暴利をむさぼるクソ野郎であったのなら、平民側にも言い分が立ち交渉を有利に進めることができます。ところが貴族も名誉を重んじるいい奴だったのです。

平穏に自分の農地を耕す毎日を送っていたキンキナートゥスは、独裁官に任命されたと告げられる。鍬を捨て指揮杖を手にした彼は、国境を侵していた外敵相手の戦闘に勝利を収めるのに、十五日とはかからなかった。キンキナートゥスは、六か月座っていることもできた独裁官の地位を十六日目に返上し、ふたたび自分の農地に戻って百姓の日常を再開したのである。

こんな感じで平民・貴族両者とも名誉心を大事にし清く正しくをモットーに生きているがために、かえって両者の交渉が成立せず泥沼にはまる、という一筋縄ではいかない歴史の面白さを見ました。

街道

ローマ人は街道を多く建設しました。ほとんどがローマを中心とした放射状の道路です。軍隊や経済を効率的に運ぶ動脈の役割をする道路、これの重要性を知っていたのはローマ人だけでした(どこからその発想が湧いたのかは書かれていません。気になります)。アッピア街道を始めとする道路は、ほとんど現存しています。いまでは高速道路のバイパスになっているそうです。

私の大好きな曲の一つにレスピーギの組曲「ローマの松」のトリを務める「アッピア街道の松」があります。


Respighi :The Pines of the via Appia – Karajan* – YouTube

美しい。

アッピア街道というのはローマ人の貴族の中でも名門中の名門、クラウディウス家のアッピウスが敷設したことにちなんでつけられた名前だということが本書に書いてあって、驚きました。もちろんレスピーギの曲を聴いたときは知りませんでした。アッピア街道はローマをスタートして、苦戦するサムニウム人の攻略のために重要な年であったカプア(現在のベネヴェント)、ピュロス軍を呼び寄せてローマと戦わせるギリシャ系都市国家のターラントを結ぶ超重要な街道だったのです。

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奈津子の徒然雑記帳 歴史を歩く21

街道はローマ人の開放性を表す大きな特徴の一つでした。というのも、自国の流通が活性化されるのはもちろんのこと、他国の流通も活性化させます。上図のタラントから、ピュロス軍はアッピア街道を北上しローマの近くまで押し寄せてくるのです。日本のお城は堀を設けて敵を寄せ付けないわけですが、街道はこれと正反対の思想です。「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」といった根性がなければできない芸当ですね。オープンというのはとても厳しいことです。

 

印象深かったのは以上述べたことですが、2巻ではケルト族への敗北、熟練の策略家ピュロスとのギリギリの戦闘も読みどころです。3巻以降も楽しみ。

 

巻末の年表を見て愕然としました。ローマ人が南イタリアを制圧した紀元前270年頃、日本に関する記述は「弥生時代」しかありません。ギリシャで哲学が花咲きソクラテスが刑死し、ローマがケルト族に占領されアレクサンダー大王が東アジアで暴れまわった頃は「縄文時代」としか書いてありませんでした。。無論日本内でも色々な出来事は起こっていたのでしょうけれど、日本に文字が無かったというのは致命的ですね。もっと早くから記録が残っていればよかったのに。本当に残念です。

 

 

 


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