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数年前にこの漫画を読んで何カ所か衝撃を受けました。いま読み返してみると、細かい点で気になるところはあるけれど、優れている。何が優れているのか自分なりにできるだけ解釈していきます。
ダメ人間のためのひきこもり漫画
大学を中退して引きこもること2年の佐藤達弘の前に、エホバ(明言されていません)の勧誘おばちゃんが現れます。エホバはふつう2人組で行動し、先輩が後輩に布教のお手本を見せるのが典型です。その2人目として、本作のヒロイン中原岬が現れます。佐藤は岬を可愛いと思いますが、錆び付いたコミュニケーションスキルのせいでおばちゃんに挙動不審な態度を取り、自己嫌悪に陥る。しかし数日後、岬は佐藤を「プロジェクト」に抜擢したと告げ、2人の関係が始まる。。
脱線すると私は2年間ほどエホバの人の話を真面目に聞いていたことがあります。しかしエホバの資料は押しつけや曲解、こじつけに満ちていて、エホバ版聖書も日本語が破綻しておりどうしようもなく引っ越しを機に関係を絶ちました。しかしキリスト教への関心は今でも潰えていません。まともな新共同訳新約聖書は一通り読破しました。福音書は箴言に満ちておりとても面白かったです。
話を戻します。断っておくと、ひきこもりやそれに近い精神状態になったことがない健全な精神の持ち主は、この漫画を読むと「岬ちゃんなんかいねえよ!キモい、不健全、何のカタルシスもないつまんねぇ物語」と評価するでしょう。その通りですし、正しい。岬ちゃんは現実にはいません。健康的で何の問題もない感想だと思います。
登場人物が極端に駄目化
小説版、アニメ版と比べて登場人物の設定が大きく変更されています。まず主人公の佐藤は全体を通してほとんど成長しません。親絡みのいい話のあとも更生しませんし、思い人の柏先輩と綺麗に別れ成長したかと思いきや悪友の山崎が行方不明になっても放っておいてパチンコをしている。ラスト8巻で岬と一緒に崩れゆくアパートの屋根裏に立てこもる最高の見せ場で、一人で逃げる!最高のクズです。
ヒロインの岬も性格が歪んでおり、佐藤を「引きこもり脱出プロジェクト」に引き入れるのは「佐藤が自分より劣るゴミムシであるから」という理由で、本当に脱出させようとは思っていません。サブキャラの委員長も兄が更生したら破綻してしまったので似たような性格です。
佐藤君は路傍の意志なんかじゃないわ。血も肉もあるダメ人間だもの!私、初めて見つけたんだよ。あたしよりよっぽどクズなゴミ人間だもの。野良犬よりもみじめなヒッキーなんだもの…だから私には、絶対佐藤君が必要なんだもの!(2巻)
思い人のはずの柏先輩も結婚生活がうまくいかなくなると「変わらない佐藤を見て安心したい」という理由で佐藤に近寄ってくるクズです。この漫画には基本的にクズしか登場しません。劣等感からオタクに走っただけの山崎が一番常識人でしょう。
佐藤達弘の魅力
私は佐藤が好きです。佐藤の過剰なまでの自己愛が転じた自己嫌悪、そこから逃げるために費やすエネルギーの強さ。数年前は佐藤に嫌悪をもって読んでいましたが、今読むと嘘くささがなく最も人間的であると感じました。
怖いから全てから逃げる。20年間以上全力投球で逃げてきたので、筋金入りになっています。「佐藤もげろ!」と言いたくなるくらい岬が近寄ってきても逃げる。感情が湧かない。感情を発生させることからも逃げているから。極限まで逃げを追求すれば人格が摩耗し、委縮し、ついには0になることは必至です。だから何をやっても気力がわかないのです。それでも生きていかなければなりません。
本当はここにはなにもねーんだよ!あるとすればそれは幻想だ!混乱だ!だとしても俺たちは死ぬわけにはいかない…!だろ!?(8巻)
最初から最後まで佐藤はこのような台詞ばかりです。
8巻ラストで佐藤ははじめて逃げることをやめます。人生を自分で選択し、自分の意志で岬を好きになろうと決心します。ただし、それは「NHKの陰謀に負けないため」という、敵を作って戦うという媒介に支えられてのもの、ですが。NHKは自分ではない意志の象徴であり、無意識的な概念を決定する漠然とした大きな存在を表しています。佐藤は、自分の意志で生きていくことが、責任を全て自分で引き受けることであると明言しているわけではありませんので、また逃げに走ってしまうことは十分考えられますが、これまでの経緯を考えるととてつもなく大きな一歩だと思います。数年前はここで感動しました。
数年たって読み返してみて、なんでこんなに佐藤に嫌悪感を感じつつも魅力的に見えたのかを考えてみるとごく単純で、佐藤の姿が完全に自分と重なっているからでした。思考パターンも行動パターンもびっくりするくらい自分と同じです。逃げ、責任を人に押し付け、心に侵入されると激しく拒絶し、そのくせ自分のことについて何も考えないし、いつまでもクズのまま。5巻のハイパーセルフプレジャーのくだりなんか涙なしでは見られません。プライド転じてどん底に落ち込むとマジでこういう思考パターンになりますよ。漫画版の作者もそうだったに違いありません。
アンチ物語である
8巻ラストこそそれなりに頑張って綺麗にしていますが、山崎と奈々子の結末は最高に後味悪いですし、柏先輩と城ケ崎さんの結末も未来に不安しか見えず正直言って疑問だらけです。極めつけは岬の扱いで、原作とアニメ(アニメは見てませんがあらすじだけネットで少し見ました)では母親が早くに無くなり酒浸りになった父に暴力を振るわれるというリアル不幸な設定でしたが、漫画ではその設定が佐藤に対する虚言として使われます。岬は可哀そうでも不幸でも何でもなくただ性格が故障しているだけという設定です。漫画版は物語を綺麗にせず意図してひっくり返しているように見えます。健全な物語に対するアンチとして書いたんじゃないかと思うほどです。
まとめ
それなりに思い入れのある物語ですが正直、いまいちな点も多いです。元も子もないですが岬や柏先輩のような出会いは存在しません。引きこもりは親の庇護という前提のもとに営まれる自己崩壊と自己維持のプロセスですので、そこに他人は入り込まないものです。1-3巻はエンターテイメント性が強く、今の私には響きませんでした。4巻後半からが勝負です。妄想が多く完全に男性視点です。女性にはお勧めできません。実はラストの岬の姿にも私は納得していません。どうせなら、自分に自信をもってもっとはみ出せばいいのに、、と思いました。
それらを差し引いてもやはり愛着のある作品です。登場人物、とりわけ佐藤が描き出す生の人間性が好きなのだと思います。今後も生の汚い人間の心理が抉り出される作品を読んでいきたいです。
なおこちらにも素晴らしい感想があるので一読をお勧めします。