振り返り1 ~小4

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私が自分について知っていることは、断片的な記憶の集合体です。ふつう自己像というものは脊髄の通った太いストーリーがあって、そこに個々のエピソードがぶら下がっている物だと考えます。発達心理学の分野では「~期」のように自己他者の認識と言ったいわば哲学的な能力が発展していくモデルが作られていて(うろ覚えです)あたかも個々人はその能力を言語化したり自己認識したりして自己を確立していくように描かれています。

しかし私の自己像はいくつかの出来事がバラバラに散りばめられている点描のようなイメージです。それはおそらく、私にアイデンティティというものが長らく存在しなかったことを示しています。私の自己同一性がやっと確立したのはごく最近のこと、今年に入ってからです。生まれてから30年以上たっています。8年前についたアスペルガー症候群という診断すら私に基礎杭を打ち込むものとはなりませんでした。

これから私が行いたいのは、バラバラな記憶を統合するストーリー、物語の構築です。当時の自分に出来事の意味づけを行う能力が無かったのは仕方のないことです。ないものはない。今もあるかどうかは分かりません。できるだけのことは行いたいものです。個人や土地が特定できそうな記述はなるべくぼかしますが目的を達成するために効果と天秤にかけてぼかさないこともします。

~幼稚園

私は名古屋から電車で1時間程度のとある郊外で育ちました。駅からはかなり離れており車がないと生活できない典型的な田舎です。山脈が近く田園風景が広がっていて自然はありますが、ファミコン時代に生まれましたので、自然と触れ合う機会はほとんどなく友達とゲームばかりして過ごしました。今考えると非常にもったいない。

私は2kgちょいという低体重で生まれました。今までの経験上低体重で生まれた人間は思考に偏りがあることが多いです。身内でも私より偏りがある人間に実父(2kg弱)と義母(1kg弱)がいます。

小学生よりも前の記憶はほとんどありません。私が育った土地は小学校に保育園と幼稚園が隣接しており、公立の保育園→幼稚園→小学校がエスカレーターという謎の仕組みでした。幼稚園はプレ小学校という意味合いで、1年間の年長組しか存在しませんでした。関東に出た後に保育園と幼稚園が並立する存在だと知り驚きました。

保育園にも幼稚園にも通いました。保育園の記憶は園庭を除き0です。幼稚園だけ若干覚えています。それも嫌なことだけ。それは学芸発表会という園児の発展を願う名目で教師と親の満足のために行われる会のことです。

発表会では劇を上演します。覚えている限り2回上演しました。私は極度の内気のため、セリフを言うことができませんでした。1回目の劇ではタヌキの役で2言セリフを言うだけなのですが、どうしても言えません。1対1で会話をすることはできますが、人前で何かを話すということはたとえそれが用意されたセリフであっても不可能でした。今でもその残渣は残っています。結局、タヌキを3人用意して同時に台詞を言うという対処にしてもらって(してもらったのか人が余ったから途中で増えたのか忘れました)何とか乗り切ることができましたが、数少ない記憶の1つがこれでしたので相当嫌だったと考えられます。2回目の劇はピラニアの役で、「僕はピラニアだ」と言うだけの役でしたがこの1言をいうのさえもとてつもない負担だったことを記憶していますのでやっぱりめちゃんこ嫌だったようです。発表会なんて滅べばいい。

内気とは自意識過大によるものだと考えます。他人の前で失敗するのではないかと恐れることは自分の自己イメージを崩したくないという考えから生じるからです。人にどう思われようとかまわないという意識があれば他人に対してどのような振る舞いをしようと気にすることではありません。私は当時大きな自己イメージへのこだわりがあったのかもしれません。

ここまで書いて1対1の会話では全く内気ではなかったことを思い出しました。対人関係で恥をかいたような記憶が全くないからです。むしろ恥という概念が無かったと思われます。では内気ではなかったのでしょうか。的外れ?

こうも考えられます。舞台上で台詞を言うときの環境は日常生活と異なります。しんとした環境の中で言葉を発するのは一人だけ、しかもその一人に全員が注目するという異常な状態です。あれに耐えられなかったのかもしれません。もしそうなら特別なことではありませんね。ただし「人前で何かが言えた」ような達成感は全くなく、嫌な感情だけが残っていますので後々プラスになることは全くありませんでした。

小学校1~4年

そのまま幼稚園の隣にある公立の小学校に進みました。4年生までの記憶は断片的にしかありません。特に学校生活は印象が薄く、覚えていることといったら時計くらいです。

小学校に限らず学校では時計に従って行動します。小学校の時計はすべてアナログ式で、時刻が来るとチャイムが鳴ります。45分授業が基本で、

朝の会8:40、1限目は8:50~9:35

10分休んで2限が9:45~10:20

20分休んで3限が10:40~11:25

10分休んで4限が11:35~12:20

給食が13:00まで

20分休んで5限が13:00~13:45

6限が13:55~14:30

20分掃除して10分帰りの会、15:00に下校でした。

ときどき短縮授業と言って40分授業になることがありました。下校は14:30です。

6年間すべて同じタイムスケジュールで過ごしたため、今でもその時間を暗記しています(覚えていて驚きました)し、どの時刻をとっても何らかの感覚が残っています。特に10:20~40の間の20分休みは最も遊べる時間だったため、10:20のあの直線からちょっと曲がった角度には少々思い入れがあり、いまでも10:20くらいのアナログ時計を見るとちょっとした感慨が現れます。授業中は時計をしょっちゅう見ていたということですから授業がつまらなかったのか単に時計が好きだったのかどちらかだと思います。想像でしかものを言えないのは、当時感情が動いていなかったからでしょう。

Clock 10:20

http://etc.usf.edu/clipart/34200/34214/nclock-10-20_34214.htm

画像、探せばあるものですね。

そういえば学校の時計は1分刻みで進み、分針が時刻ちょうどになって3秒たってからチャイムが鳴ることも思い出しました。授業内容は全く覚えていません。

 

もう一つ覚えていることがあります。私は7歳の時手術をしました。扁桃腺が腫れやすくしょっちゅう40度代の熱を出すので、地元の医師に薦められ(?)、自宅から15kmくらい離れた県中心地の公立病院に1週間入院し、扁桃腺を切除しました。その時同室になった同年代の女の子がいましたが私はその子からゲームボーイを借りてひたすら遊んでいただけで何らか会話をすることはありませんでした。私はその子より後で入院し、先に退院しました。何の病気だったのか知りません。ゲームボーイしか記憶がないというのはまずいですね。

この手術は必要なかったと思っています。扁桃腺がないため高熱は出にくくなりましたが、ブロックする構造が無くなり風邪をひきやすくなりました。今でも電車で口を開けようものなら大体風邪をひきます。

 

4年生というとスーファミが出たばっかの頃ですのでやはりゲーム漬けでした。父がゲームをすることもあり私は3歳のときからファミコンで遊んでいました。

そういえばRPGをプレイすることができませんでした。RPGというのは、マップを歩いていると画面がフラッシュしたり突然大きな音が鳴ることで敵とエンカウントします。これがだめでした。寝室の時計の音が気になるので必ず頭に布団を被って寝るくらいの聴覚過敏でしたので、突然大きな視覚聴覚刺激が起きることに耐えられず、傍らに誰か人間がいて喋りながらでないとどうしてもRPGをプレイできませんでした。これは16歳くらいになって過敏が収まるまで続きました。特にFF5は画面が拡大してしかも大きな音が鳴るので最悪です。スーファミ版ドラクエ3だけは例外で、音は小さくしかも画面が左右にブラックアウトするだけですのでこれはプレイできました。

 

やはりバラバラな話になってしまいました。5年生より後はある程度記憶があり、今まで続くストーリーと結び付けやすそうな気がします。そろそろ時間切れなので、また来週書いていこうと思います。

 

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