追記:『紺』電子書籍版が出版されました。
一体どんな記事が読まれているのだろう、とクリックしてみて衝撃を受けたのを覚えています。初めて読者登録したのはc71さんのブログでした。それ以後も新着記事が出るたびに読んでいます。このブログがどうして気になるのか分かりませんでしたが、過去のログもさかのぼって読んでいました。
本書はc71さんが第一回文学フリマ福岡に出品した作品です。上のリンクからstore.jpでも購入できます。私はここで購入しました。内容は小品が4つ、彼女の実体験に即した*1私小説、随筆とブログの記述をさらに大鍋でじっくり煮詰めたような作品でした。
1作目『「頭蓋骨を割られたんだよ、それでも」と彼女は』はDV被害者?のためのシェルターでの出来事です。ちょっと長いですが、一番印象に残ったところを引用します。
痩せぎすの女は続ける。「警察を呼んでね。それで、わたしの自動車だったらまだ我慢できた。だって、わたしのだものね、わたしの頭蓋骨だって、ひびが入ったんだよ。それでもね、それでもさあ、体のことならまだ我慢できた、でも、子どものものをなんてね、あれはあの子のものなんだよ」と目の周りを黒くして、堂々とした調子で言った。わたしは、なぜ、頭蓋骨を割られても我慢したのか、ということが理解できないでいる。
「それでね、わたしは、逃げることにしたの。そうだよね、誰だって逃げるでしょう。頭蓋骨は自分のことだからなんとか逃げないでいても、ほら、子どものものだったら、自分のものじゃないから、それはひどいと思って」わたしはそれを聞きながら、魚の煮物を食べようとしている。頭蓋骨を割られても女は、我慢するものだ、という気持ちの欠片がわたしを刺している気がした。
よく読むと、実は痩せぎすの女は「頭蓋骨を割られても女は我慢するものだ」とは言っていません。「私は我慢した、子ども(を殴った?)のは許せない」と言っています。ここから「わたし」は相当に強い歪みを植え付けられたことがわかります。2作目を読むと分かるのですが、「わたし」がシェルターに避難する前に交際していた男性は拘束する男性だったということですので、四六時中、女は耐えるものだとか俺の言うことだけ聞いていろ反抗したらただではおかないとか言われ続けたに違いありません。つまり気持ちを刺したのは痩せぎすの女の言葉を借りた、男です。後述しますが男はアホです。支配自体が好きなので何でもします。
2作品目の『ブルー・ビーナス・ブルー』は個人的なことで申し訳ないのですが、あまりにも自分の状況とタイムリー過ぎて打撃をうけました。これを読んで私がなぜc71さんのブログが気になっているのかわかりました。1作目から時系列が戻り、同居男性からの拘束から脱出する前後の過程を描いています。
直接殴られることはなかったものの、生活の中で、私の意志が通ることはなかった。あれが「生活」と言えるならば。今のわたしはあれが、「生活」なんてものなんじゃないと知っている。わたしは「言葉」で、愛していると言われたから、それが約束だと信じていた。信じていたけれども、実際には、いつも譲ることが多く、だんだん、意思やからだの安全を浸食されて、友人との接触も家族との接触も禁じられるようになっていった。
わたしが探していたのは、この感覚だったようです。私の意志は、十数年間の生活の中で、葬り去られようとしていました。外出できる時間は限られ友人との接触もない、食事への無駄な浪費*2のせいで私に残るお金はゼロ、意見の違いは私の異質性と頭の回転の悪さのせいで、論駁され切り捨て、すべてどこかに置いて行かれました。
私の親がキチガイなのも悪いのですが、過去の自分と関連がある世界は全てタブーでした。口に出すことも許されていませんでした。私は過去の夢をしょっちゅう見ました。明らかに抑圧の補償のためだったと思います*3。家族との亀裂の決定打となったのは私が古い友人と会うと言ったことでした。私も決定打となることが分かっていて言い出しました。
わたしはc71さんの段階よりもさらに進んで、結婚しこどもも生まれました。そしてこどもを3人置いて家を出ました。世間一般の常識から言ってクソ人間です。自分のお金がないことで困っていたのに、結果的に生活費はワーキングプア以下となりました。通帳もカードも置いてきました。給料の80%以上が毎月そこから引かれます。しかしそこまでしてでも自分の独立が欲しかったのです。
20代の頃は愛というものが存在すると思っていました。そしてそれを求めなければいけないと思っていました。求めなければ人間としてのレベルが低い、人間失格、自己卑下すべき存在だとすら思っていました。私たちはいかに社会に思考様式を規定されてしまうことでしょう。
しかし私にはもともと愛なんて備わっていなかったようです。気が付くまで10年以上かかりました。でも指輪はしたままです。外す理由が見つからないのです。あるのかないのかどっちなんだ。まだ家を出たばかりで、気持ちが整理できるまで時間がかかるのでしょう。もっと正確に言うならわたしには愛はあるが世間一般の愛とはずいぶんと違うものなのではないかと考えています。どう違うのか説明するためにはもっと頭が良くならないといけません。
脱線しました。自分のことを話したがるのは、抱えていたものが重すぎて吐き出さないと潰れてしまいそうだからだと思います。拘束される男から逃げるくだりでは、「わたし」ははじめ歩けないと思っていたと書かれています。
風はわたしの方に吹き込んで来たので、わたしは風に抵抗するように歩いた。風を切って、振りほどくように。歩こうと思ったら、歩けた。歩き方も忘れたと思っていたのに。指示されなければ右足の出し方も忘れてしまったのだと思っていたのに。右足を出したら、左足が出た。交互に動かしたら歩けた。
とても感動的な描写です。この「右足の出し方も忘れてしまった」というところがグッとくるのです。そう思わされているだけなのです。無能力にされていたことに気づけて良かったと思います。恫喝によって近しい人間を無能力にするというのはアホの使う常套手段ですが、それはそれだけあなたが脅威であったということですので、自信持ってください。
3作目『柔らかにつたのつるは伸びて』稼がない男や生活能力のない男の批判がされています*4。
小菅井さんの口癖は「どう思う?」と「男なんてほんとろくでもない」で、わたしはその後者に強く同意する。本当に男はどうしようもない。働かないし、偉ぶるし。
私は男ですが、主語を大きく一般化して男はバカだと言い切ってよいと考えています。思うに、女性は生理があるため体のバランスが周期的に変わります。したがって体調を常に気にせざるを得ません。すると、あああの人も大変なんだなと他人への思いやりも湧きやすいのではないかと想像します(共感しない人もいると思います)。視点が自らの周辺に集中する以上、生活への関心も高くなるでしょう。
男は体温が一定です。自らの生存についてあまり考えないでよく、せいぜいウンコ漏れそう程度の生理現象を気にしていればよいです。なので体のことなんか無頓着です。自分の体に無頓着なら他人の体にも無頓着で想像力不足です。いきおい視点は他人ではなくオレ様に向かいがちです。しかし他人は自分の言うことを聞かないし、男は言語的能力が低いことが多いため他人を説得し納得させる能力もありません。
そこで生物学的に恵まれやすい腕力をもって他人に言うことを聞かせます。自分の体はてめぇのおかげで獲得できたわけではないのに、腕力が自分の力である、自分えらい!すごい!と考えます。口では絶対に言い負かされてしまうことが分かっているので、腕力への盲従バイアスはらせん状に強まります。暴力を振るう人間はいつも隠れてビクビクしているのです。砂上の楼閣です。このような人間にはバンバン公権力を使ってください。後ろ暗い人間は法や権力に弱いのです。
ラスト『夜には星をつかんで』はいつものc71スタイルで、とても好きな作品です。
頭を抱えたくなることもたくさんあるし、自分がやってしまったことを後悔することもある。恥ずかしさに叫びだしたいときもある。夜には気持ちがすっと深い色になる。悲しみも、苦しみも、苦さも、秋の色のように、深く沈んだ、でも豊かな色合いになる。
c71さんは色の表現が好きですね。脳の配線が知覚と色で混線すると共感覚が発生するそうですが私は色彩が感情と分断されており夢にも色の概念が存在しないのでとてもうらやましいです。タイトルも『紺』でしたね。紺色がどのような気持ちと重なるのか興味があります。
本作品は特に最後の1ページが好きで紹介したいのですが、ここで引用すると本作品の価値が減ぜられるおそれがあるので、みなさん買って読んでください。私のブログはc71さんのものとくらべると2ケタ少ない人数しか読まれていないので、大した数にはならないですが。。
そういえばc71さんは自閉症スペクトラムであると書いていました。私は8年ほど前にアスペルガー(DSM-5では自閉症スペクトラムの一部分になりました)と診断を受けています。誤解を恐れずに言えば自閉症スペクトラムとは、先天的わがままである、と考えています。
自閉症スペクトラムは脳の配線や機能的な不均一に由来することが近年わかってきていますが器質的なことはさておき、いくつもの実証例を見てわかることは、スペクトラム星人は地球人とは思考様式が異なるということです。常に日本語とスペクトラム語に同時通訳しながら他人と関わる必要があるため、消耗します。地球人との会話は不可能ではありませんし家庭生活を営める星の人間も存在しますがきっとその人は疲れています。私も疲れた人間のうちの一人です。先天的わがままと表現したのは、他人と交わることを期待しつつ、根源的なところで孤独を好む存在であるということです。他人と有機的で実りのある、お互いに高めあうような交際をしたいんだけれど、実は心の底で自分の利得を計算している。根っこのところで他人の願いよりも自分の願いを優先したいと思っている。いま読んでいるソローもそんな人間に見えます。でもそれの何が悪いのかというと、何も悪いところはありません。地球人よりも自覚的にわがままになれる、らくーにわがままにスイッチを入れ替えることができるというだけです。ただし近年知られているように、スペクト星人には色んな惑星の出身者がいますから、みんながみんなそうという訳ではありません。これは私の主観です。どうも、スペ人には他人との密な交流を求めるも挫折する人間が多すぎるように思うのです。。
最終1ページがなぜ好きかというと私がここにものを記すスタンスと完全に一致しているからです。一人になって、誰もいない住宅街を歩き誰もいない部屋に帰る夜、この記事の下書きをほのかな光の中で作っている気持ちにジャストミート*5しました。あなたのシグナルが届いている人はたくさんいます。ここにもひとり。