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ひねくれた哲学者による「嫌い」論
著者の中島義道(1946-)さんは、ドイツ哲学者?です。しかし彼は学者という言葉が嫌いで、反社会的な面の強い異端な人です。それもそのはず、大学を卒業するのに12年かかる、東大助手から何故かぶっ飛んで電通大の教授に収まる、などとても変わったキャリアの持ち主なのです。ここら辺の経歴は彼の膨大な著書の中に書いてあるでしょうからまた読んでみようと思います。
「嫌う」ことは自然である
本書で繰り返し繰り返し主張されることは「嫌う」ことの自然性です。
私はまず、われわれは誰でも他人を嫌うこと、しかも――残酷なことに――理不尽に嫌うということを教えたい。
嫌うことは誰にでも当たり前に生じる、ある意味精神的に健全なしるしです。これを大人が「人を嫌ってはいけない」という道徳をもって説き伏せることにより、我々には嫌うことへの絶対的禁止が植えつけられます。人を嫌う奴は人間失格だ、カスだという観念が浸透します。しかし嫌うということは自然に生じるので、われわれは罪悪感を感じ精神的に引き裂かれます。著者に言わせればこんなものは欺瞞です。大人は、まず「嫌う」ことが当然であるということを教えるべきだと主張します。書いていて気づきましたが人を嫌う奴が人間失格だというのも「嫌う」ことですから矛盾してますね。
「嫌う」ことは本質的に不合理
本書では嫌うことの段階を8つに分け、最後に「相手に対する生理的・観念的な拒絶反応」というレベルを設定しています。嫌うということは雪だるま式にどんどん自己増殖していき最終的に「その人だから嫌う」という段階に至ります。ここまでくると嫌うことをやめることは一生不可能です。しかも、「その人だから嫌う」と、具体的な理由がないので不合理です。しかし私たちはこのようにして人を嫌います。人間の感情なんて元来不合理なものです。でもそこから逃れることはできません。いかにして「嫌い」と付き合うのか、それを一生かけて考えるのが健全である、と著者は主張しているように思います。
自己嫌悪=自己愛
自己嫌悪と自己愛は表裏一体である。これは自分でも自覚していたことなので中島さんに指摘してもらってとてもうれしいです。自己嫌悪と自己愛については明日別の本の書評で書きます。
個人的なこと
この本は、友人Aとのあるやり取りの中で「嫌う」ということを議論した(議論したのは生まれて初めて)ことにより興味がわき、つい手に取ってしまいました。議論の内容は私にとっては感動的なものでしたが、プライバシー保護のため詳細は控えます。私たちは会話の末、「嫌う」ことはいけないことで認めたくないことだが、どうしようもない止められない。相手にぶつけてしまうか、距離を置くかいずれかしか解決方法はない、、という結論に達しました。今思えば我々は「嫌ってはいけない」という紋切り型の観念に囚われていたことになります。
友人に本書をプレゼントしたいと思っています。そうすれば、彼はきっと、楽になれる。
終わりに
本書は著者の個人的な、家族に嫌われるという経験に端を発していると思われます。そして「嫌う」ことの原因を追究し、まとめあげ、心の安定を得ます(完全に安定するわけではないですが)。物凄く個人的で、わがままな動機です。そして彼は、自分でも自覚しているように自尊心が高い。何もかも言わずにはいられない、表現して他人に読んでもらいたい。表現者とはみなそのような傾向がある、と著者は自ら話します。その通りだと思います。しかしそのような表現者によって我々は多くの知見を得、救われ、糧にすることができるのです。とてもありがたいことです。
あとがきのオチで私は感動してしまいました。
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