振り返りの目的

なぜつまんねぇ自分史を書いているかと言うと、来月上旬くらいに家族と別れて一人になることが決定したからです。家族とは別れます。このまま、絶縁している実家とも和解せずに一生孤独で過ごすつもりです。再婚も一生しません。老いても子供に世話してもらいたくないので、どうにかして老後暮らせるだけの財産を築きたいと思っています。すべては、失敗でした。

どうしてこんなことになったのか流動的でふわふわして全く整理できていないので、自分なりに原因を考えて自分の文脈と位置を把握しておきたいからです。

ブログのタイトルは、毎日六帖の部屋にこもって仕事をしていたことからつけたのですが、本当に、六帖の部屋に一人きりで生活することとなりました。


振り返り 中1-3

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塾をやめたので公立の中学校に進みました。田舎ですので適度に荒れています。荒れるのを防止するために、全員が強制的に部活動に加入させられます。私は小学校時代に運動に劣等感を持ったので、文化部しか居場所はないだろうと考えていました。そして吹奏楽部に入りました。

中学の部活動というのは拘束時間が長いものです。3年間ほとんど部活動しかしてなかったんじゃないかといっても過言ではありません。特に夏休み。ほぼ休みなしで毎日8:30~17:00くらいまで酷暑の中練習するなんて尋常じゃないです。何人か脱落者も出ましたが数人にとどまります。あの環境を生き抜いた人間は大体なんでも耐えられるんじゃないかと回想しますが、高校に入った私の気力が急速にしぼんだことを考えると燃え尽きた人間の方が多そうです。なんでもスパルタすりゃいいってもんじゃありません。

吹奏楽部では同学年の男子が自分を含めて3人しかおらず、仲良くなりました。そのうちの1人とは今でも連絡が奇跡的に続いています。

もう1人の男子とはよく遊びました。しかし小学校のときと同様、劣等感を抱くことが大きくなりました。中学生と言えば第二次性徴、色ボケの始まる時期です。彼はよくモテました。部屋に後輩のダレを連れ込んだだの何度かそのような話を男子陣でこそこそしていましたが、羨ましいものだと思っていたものです。

私はADHDもおさまってきて積極奇異からシゾイド系に移行する途中でしたので、いわゆるオタク趣味を持ち始めた頃でした。WIndows95, 98やパソコン通信、インターネットが出現しPCが一般家庭に浸透する時代、私の家にもPC98という機種がやってきました。私は小金持ちの祖父からもらったお年玉を何年分か貯めてMIDI音源(SC-88)を手に入れていましたので、niftyやインターネットからMIDIデータをダウンロードしまくったり、自分で耳コピする作業を行ったり、そんなことばかりやっていました。中2–3の頃になるとインターネットが普及し、いかがわしいソフトを手に入れられるようになりました。そう、LeafやらKeyやらで一躍有名になったエロゲーです。あそこに没入すると「3次元はクソ」と豪語できる境地に移動することができるようになります。

こんなものにハマっていても現実の学校生活にはモテ人間が存在します。のでどれだけ「3次元はクソ」と思っていても、彼らには劣等感を抱くものです。そして、経験上田舎で文化がない地域ほどモテが人間の尺度となる強度が高い。他に娯楽が無いからです。学校というのは残酷なものです。たいてい中学生の時期に培われた価値観は、そのまま高校~大学~長い人は社会人になってからも継続され、どんどん強度が増していくことでしょう。

田舎はすごいですよ。身の回りに「先輩の家でエッチした」「夕方薄暗い自転車置き場でやった」「体育倉庫の跳び箱の上でやった」などなどの武勇伝がそこら辺を飛び交ってました。主人公はみんな同じ部活の人ですので生々しい。

私はこの頃、モテ話の外側にいると自分を勝手に既定していました。中学の頃となると、生まれつきの体の不器用さがだんだん尖鋭化してきていて、楽器を上手く扱えず一人だけメンバーを外されることもありました。また、演奏に表情を付けることがどうしてもできなかった。これは今考えると、自閉症スペクトラムと大きく関係していたと思います。どうしても演奏が平板になる。指だけは回る。例のモテ男君と比べるとその劣等感は大きく、加えてやせ形で自己評価は低め、ランニング中に隣の高校生に「のび太が走っている」とからかわれたこともありました。ですので私は勝手に「外側」にいると自分を決めていました。防衛機制の一つだったのかもしれません。

一度だけ転機がありました。ある女の子がラブレターを渡しに来るという事件があったのです。しかしそれは後ろで女子数名が面白がりながら見守っており、そもそも呼びに来たのが本人ではなく別の女子でした。私はこれを公開処刑だと考えました。後ろでゲラゲラしている人間に耐えられない。屈辱でした。そしてラブレターをごみ箱に捨ててしまいました。今考えると直接渡しに来る勇気を持てず他の女子に伝言せざるを得なかった本人の気持ちはズタズタだったろうなと思いますが、当時の私にはそんなことを考える回路が存在していませんでした。自分を「外側」と規定していたこともあったのかなと思います。

 

中学では小学校のときに通った塾と同一系列の塾に入らされました。今度はさすがに、塾に行く意味は分かっていました。地域トップの公立校を狙えということでした。

しかし中学には「内申書」というクソのような制度があります。私は内申書の点数が極めて悪かった。なぜかというと、宿題を提出できなかったからです。塾のように時間的に強制されるならともかく、学習を自主的にやれと言われるくせにペースが他人から与えられるというのは苦痛でした。予定を立てられないという性質もありました。そして、他人の宿題を写したり答えを写したりするのも、みんなやってるのに、自分にはどうしてもできませんでした。正義感というものではありません。不合理なこだわりのようなものだったと考えています。そして、宿題をやらないまま夜が来ると自己評価が下がり、それから逃避するためにパソコンに向かって夜更かしし、そのまま宿題はできず深夜となり力尽きて眠る。なにもしないで内申点だけが下がっていきました。主要5教科で5段階の最大評価がついた科目は、一つもありませんでした。

これは現在の高校入試でも変わらないのですが、難関校ほど内申書を重視しません。私が受験した高校は内申書の点数配分が1割だったそうです。なのであっけなく合格しました。教師には「なんでお前が」と言われました。こうして高校進学後に、また転機を迎えることになります。中学までに基盤が作られ、高校で大きく方向性が変わりました。また来週に続きを書きます。

 

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振り返り 小5-6

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小5~小6あたりから記憶がポツポツ残り始めます。

私は小4くらいから(いつからか曖昧)?徒歩10分くらいのところに住んでいたO君の家に入り浸っていました。8割くらいの確率でN君もやってきて、3人でいつもゲームをしていました。当時はファミコン~スーファミ~プレステ+セガサターンに移り変わる家庭用ゲームの過渡期だったため、ゲームの種類には事欠きませんでした。O君の親は公務員で、それなりにお金があったため最新のハードがいつもありました。溜まり場となったのは必然でした。時々物干しをゴールにしてサッカーで遊ぶこともしていました。

私はゲームでも、サッカーでも2人に全く勝つことができませんでした。特に格ゲーが全然ダメ。ストII~飢狼伝説~ストZERO、アーケードではKOFといったカプコン・SNKの当時の格闘ゲームは一通りプレイしましたが、対人戦ではほとんど勝利なし、乱入されると即死、CPU戦でも4回戦までには確実に負けるという有様でした。ここで私にゲームも運動も苦手という劣等感が植えつけられることとなりました。

小5になると小3か4のときの担任から私立中高一貫校を受けるように助言があり、電車で20分ほどの街の塾に週1で通うようになりました。何しろ田舎でしたから、県内の私立中で名門と呼べるのは1校しかなく、そこに合格することが将来の学歴を保証する貯金のような存在でした。しかし私は塾に通うことの意義など全く知りませんでした。ただただ教師と親の言う通りの場所に行って、勉強していました。5年生になったらみんな勉強するもんなんだな、とだけ考えていました。成績は良かったようです。

夏期講習やら冬期講習やらに通い、年が明けるころに6年生になると塾には週2回や3回行かなければならないことを知らされて、はじめて「あれ、O君もN君も塾なんか行ってないぞ」ということに気が付きました。ふつう週1で通っていても気が付くと思います。私は嫌がりました。だって、週2回3回も塾に行ったら、O君N君と遊ぶ時間がなくなるじゃん、と思ったからです。私にとっては将来とか勉強とか全く考える能力はなく、ただ算数の先生怖いなとか、国語で作者名沢山覚えるの面倒だな、という感覚しかありませんでした。ですので、遊ぶ時間が無くなるという理由で、塾をやめました。今考えると親も親ですね。私立中に行く意味、なんで教えてなかったの。

あのまま塾に通っていたら、私立中高一貫にはほぼ間違いなく合格していたと思います。そうしたら私の人生はどう変わっていたのか、今でも興味があります。結果的には、塾をやめていて正解だった、と思いますが。。

小学校の授業中、わたしはADHDだったと思います。授業中、手を上げる前に正解を言ってしまうのです。授業にかなり差しさわりがあったでしょう。担任には「口の害と書いて口害」と言われていました。これだけ見るとなんかパワハラっぽいですが、おばちゃん先生だったこともあり私は全然気にしてませんでした。むしろ面白がっていたと記憶しています。

特定の女の子が毎日牛乳を残すので、私は毎日その子に牛乳を貰い、1年間毎日400mlの牛乳を飲んでいました。しかし身長は伸びませんでした。牛乳で身長が伸びるというのはうそです。

マセな友人が「好きな女の子を決めよう」などと言っていました。誰が誰を好きということにする、というごっこ遊びみたいなものです。私は全く意味が分からないで適当にその牛乳をくれた女の子を指定しました。だからといって何かアクションをしたわけではありません。今どうしているかも知りません。

4コマ漫画の起承転結を友達に話すのが好きでした。台詞を全部覚えていて、順番に言うのが好きでした。今ではそんなに記憶力が無いので無理ですね。また、祖父の家でCATVを見られたため、そこで邦楽や洋楽のランキング番組を見て、毎週チャートをノートに書き写すのが趣味でした。毎週40位くらいまで書き写していたので、そのあたり2年間だけ、の邦楽洋楽には詳しいです。ウルフルズがバンザイを歌い、小室哲也が猛威を振るい、スパイス・ガールズがワナビーを歌い、ケミカル・ブラザーズが爆発していた頃です。ビデオテープからカセットテープにランキングの1位の曲だけを抜き出してオムニバステープを作るのも好きでした。一見重要そうではない物事への収集と分類、順列への興味が大きく現れていたと思います。でも本当に楽しかったのです。そういえば父もレンタルCD店からCDを借りてカセットテープにダビングするのが趣味でした。家には何百ものカセットテープがありました。全部聞くわけじゃないので、収集することが目的だったんだろうな。私はそこから洋楽を知りました。

小学校時代で覚えているのはこのくらいでしょうか。次は中学校です。

 

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振り返り1 ~小4

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私が自分について知っていることは、断片的な記憶の集合体です。ふつう自己像というものは脊髄の通った太いストーリーがあって、そこに個々のエピソードがぶら下がっている物だと考えます。発達心理学の分野では「~期」のように自己他者の認識と言ったいわば哲学的な能力が発展していくモデルが作られていて(うろ覚えです)あたかも個々人はその能力を言語化したり自己認識したりして自己を確立していくように描かれています。

しかし私の自己像はいくつかの出来事がバラバラに散りばめられている点描のようなイメージです。それはおそらく、私にアイデンティティというものが長らく存在しなかったことを示しています。私の自己同一性がやっと確立したのはごく最近のこと、今年に入ってからです。生まれてから30年以上たっています。8年前についたアスペルガー症候群という診断すら私に基礎杭を打ち込むものとはなりませんでした。

これから私が行いたいのは、バラバラな記憶を統合するストーリー、物語の構築です。当時の自分に出来事の意味づけを行う能力が無かったのは仕方のないことです。ないものはない。今もあるかどうかは分かりません。できるだけのことは行いたいものです。個人や土地が特定できそうな記述はなるべくぼかしますが目的を達成するために効果と天秤にかけてぼかさないこともします。

~幼稚園

私は名古屋から電車で1時間程度のとある郊外で育ちました。駅からはかなり離れており車がないと生活できない典型的な田舎です。山脈が近く田園風景が広がっていて自然はありますが、ファミコン時代に生まれましたので、自然と触れ合う機会はほとんどなく友達とゲームばかりして過ごしました。今考えると非常にもったいない。

私は2kgちょいという低体重で生まれました。今までの経験上低体重で生まれた人間は思考に偏りがあることが多いです。身内でも私より偏りがある人間に実父(2kg弱)と義母(1kg弱)がいます。

小学生よりも前の記憶はほとんどありません。私が育った土地は小学校に保育園と幼稚園が隣接しており、公立の保育園→幼稚園→小学校がエスカレーターという謎の仕組みでした。幼稚園はプレ小学校という意味合いで、1年間の年長組しか存在しませんでした。関東に出た後に保育園と幼稚園が並立する存在だと知り驚きました。

保育園にも幼稚園にも通いました。保育園の記憶は園庭を除き0です。幼稚園だけ若干覚えています。それも嫌なことだけ。それは学芸発表会という園児の発展を願う名目で教師と親の満足のために行われる会のことです。

発表会では劇を上演します。覚えている限り2回上演しました。私は極度の内気のため、セリフを言うことができませんでした。1回目の劇ではタヌキの役で2言セリフを言うだけなのですが、どうしても言えません。1対1で会話をすることはできますが、人前で何かを話すということはたとえそれが用意されたセリフであっても不可能でした。今でもその残渣は残っています。結局、タヌキを3人用意して同時に台詞を言うという対処にしてもらって(してもらったのか人が余ったから途中で増えたのか忘れました)何とか乗り切ることができましたが、数少ない記憶の1つがこれでしたので相当嫌だったと考えられます。2回目の劇はピラニアの役で、「僕はピラニアだ」と言うだけの役でしたがこの1言をいうのさえもとてつもない負担だったことを記憶していますのでやっぱりめちゃんこ嫌だったようです。発表会なんて滅べばいい。

内気とは自意識過大によるものだと考えます。他人の前で失敗するのではないかと恐れることは自分の自己イメージを崩したくないという考えから生じるからです。人にどう思われようとかまわないという意識があれば他人に対してどのような振る舞いをしようと気にすることではありません。私は当時大きな自己イメージへのこだわりがあったのかもしれません。

ここまで書いて1対1の会話では全く内気ではなかったことを思い出しました。対人関係で恥をかいたような記憶が全くないからです。むしろ恥という概念が無かったと思われます。では内気ではなかったのでしょうか。的外れ?

こうも考えられます。舞台上で台詞を言うときの環境は日常生活と異なります。しんとした環境の中で言葉を発するのは一人だけ、しかもその一人に全員が注目するという異常な状態です。あれに耐えられなかったのかもしれません。もしそうなら特別なことではありませんね。ただし「人前で何かが言えた」ような達成感は全くなく、嫌な感情だけが残っていますので後々プラスになることは全くありませんでした。

小学校1~4年

そのまま幼稚園の隣にある公立の小学校に進みました。4年生までの記憶は断片的にしかありません。特に学校生活は印象が薄く、覚えていることといったら時計くらいです。

小学校に限らず学校では時計に従って行動します。小学校の時計はすべてアナログ式で、時刻が来るとチャイムが鳴ります。45分授業が基本で、

朝の会8:40、1限目は8:50~9:35

10分休んで2限が9:45~10:20

20分休んで3限が10:40~11:25

10分休んで4限が11:35~12:20

給食が13:00まで

20分休んで5限が13:00~13:45

6限が13:55~14:30

20分掃除して10分帰りの会、15:00に下校でした。

ときどき短縮授業と言って40分授業になることがありました。下校は14:30です。

6年間すべて同じタイムスケジュールで過ごしたため、今でもその時間を暗記しています(覚えていて驚きました)し、どの時刻をとっても何らかの感覚が残っています。特に10:20~40の間の20分休みは最も遊べる時間だったため、10:20のあの直線からちょっと曲がった角度には少々思い入れがあり、いまでも10:20くらいのアナログ時計を見るとちょっとした感慨が現れます。授業中は時計をしょっちゅう見ていたということですから授業がつまらなかったのか単に時計が好きだったのかどちらかだと思います。想像でしかものを言えないのは、当時感情が動いていなかったからでしょう。

Clock 10:20

http://etc.usf.edu/clipart/34200/34214/nclock-10-20_34214.htm

画像、探せばあるものですね。

そういえば学校の時計は1分刻みで進み、分針が時刻ちょうどになって3秒たってからチャイムが鳴ることも思い出しました。授業内容は全く覚えていません。

 

もう一つ覚えていることがあります。私は7歳の時手術をしました。扁桃腺が腫れやすくしょっちゅう40度代の熱を出すので、地元の医師に薦められ(?)、自宅から15kmくらい離れた県中心地の公立病院に1週間入院し、扁桃腺を切除しました。その時同室になった同年代の女の子がいましたが私はその子からゲームボーイを借りてひたすら遊んでいただけで何らか会話をすることはありませんでした。私はその子より後で入院し、先に退院しました。何の病気だったのか知りません。ゲームボーイしか記憶がないというのはまずいですね。

この手術は必要なかったと思っています。扁桃腺がないため高熱は出にくくなりましたが、ブロックする構造が無くなり風邪をひきやすくなりました。今でも電車で口を開けようものなら大体風邪をひきます。

 

4年生というとスーファミが出たばっかの頃ですのでやはりゲーム漬けでした。父がゲームをすることもあり私は3歳のときからファミコンで遊んでいました。

そういえばRPGをプレイすることができませんでした。RPGというのは、マップを歩いていると画面がフラッシュしたり突然大きな音が鳴ることで敵とエンカウントします。これがだめでした。寝室の時計の音が気になるので必ず頭に布団を被って寝るくらいの聴覚過敏でしたので、突然大きな視覚聴覚刺激が起きることに耐えられず、傍らに誰か人間がいて喋りながらでないとどうしてもRPGをプレイできませんでした。これは16歳くらいになって過敏が収まるまで続きました。特にFF5は画面が拡大してしかも大きな音が鳴るので最悪です。スーファミ版ドラクエ3だけは例外で、音は小さくしかも画面が左右にブラックアウトするだけですのでこれはプレイできました。

 

やはりバラバラな話になってしまいました。5年生より後はある程度記憶があり、今まで続くストーリーと結び付けやすそうな気がします。そろそろ時間切れなので、また来週書いていこうと思います。

 

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自分の人生を総括する必要が出てきた

私は一般人から見ると、一見3児の父に見えます。

でも法律的は2児の父で、住民登録的には何故か独身で、戸籍的にはバツ2(3?)です。

家族とは同居していますが、名目的にも実質的にも父でも夫でもありません。おそらく子にとって私は、同居中の叔父さんくらいの位置付けです。

私は1日中在宅勤務で、勤務時間でも外を出歩くことはほとんどありません。1日の平均労働時間は10時間で休日は週1日です。私は労働基準法の適用外の働き方をしているので、残業という概念がありません。一昨日から家事をほとんどしなくなったので、ご飯を食べて労働する機械のような状態です。自分で使える金はありません。借金は100万ありますが、元本は月2万ずつしか減りません。このブログを書いている時、風呂でデジタルプレーヤーに入れたCD音源を聴くとき、寝る前に本を読む時間だけが幸せです。

 

生物学的+金銭的+時間的な自主性はありません。家事一切をやってもらってるので、文句は言えません。幸いパソコンが相手なので、ここで密かに精神的な自主性を保てるのが救いです。

家族がいるから文句言うなという声があると思います。ごもっともです。が、家に居ながら法律的にも精神的にも家族でない状態というのは、こたえます。会話はほとんどありません。愛情なんて全く分からなくなりました。私は30代前半ですが、考えてみるとここ数か月精通すらしてません。

suumoの新着物件情報を毎日チェックしています。ここに住んで食料はあれを買って時間の配分はこうして、という妄想が止まりません。おかげで比較的安い物件が多い(=供給過剰で人気がない)相模原市・町田市・八王子市の図書館立地とスーパー・ドラッグストア事情に異様に詳しくなりました。家賃2万円程度で条件に適う物件が4件ほど見つかっています。3市はいずれも単身用マンションの造り過ぎですね。安いのはみんな分譲賃貸でしかも似たような間取りと設備です。特に相模原市がひどい。

最近調べている食料コスパ調査も妄想の一環です。月1万円もあれば栄養満点で腹一杯な食事を十分エンジョイできることがわかりました。それから家具や家電も随分調べました。kakaku.comを使えば新品家電はヤマダやノジマのチラシより安く手に入る死、ジモティーというヤフオクをもうちょっと原始的にしたようなサイトを使うと、物によっては相当安く手に入りそうです。

自分で自分の生活を組み立てる想像をすることが楽しいのです。山で木や空や動物をずっと眺めていたいので上に挙げた3市だと八王子が一番山に近くていいかもしれません。

 

なぜこんなわけわからんことになったのか。今の生活に至るまでを振り返り検証する必要があります。

平日は時間が取れませんので日曜あたりに検証していこうと思います。

 

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