書籍レビュー: わかりやすい哲学者列伝107傑『哲学大図鑑』 著: ウィル・バッキンガム 訳:小須田健

★★★★★

 

以前「経済学大図鑑」という本を読みました。これがなかなか面白かったのでこのシリーズ、全部読んでみたくなりました。分厚くてでかいので時々1冊読む程度のペースで全部読もうと思っています。

 

哲学は私にとって昔から気になる分野です。というのも私は頭が悪い、特に論理的思考力に問題があるという自覚がありますので、論理の原理原則を追求し思考の基盤となる(と信じている)哲学をどうしても学びたかったのです。そしてそれは、ふつーの人が当たり前に考えている常識のようなものへの架け橋になると考えていました。私にとって全く理解できない常識がどんなものか完全に解体してしまえば理解できるようになるかもしれないという期待があります。哲学が本当にそんなものなのかどうかについてははまだ結論は出ていません。

そこでまず西洋哲学の概説書を読んでみようと思いました。古本屋の100円コーナーにカバーなしで捨て置かれたような状態になっていたこの本が目に留まりました。

西洋哲学史 (上巻) (岩波文庫 (33-636-1))

西洋哲学史 (上巻) (岩波文庫 (33-636-1))

 

ゴミ箱から救い出すような気持ちで購入し上下巻とも読んでみましたが、意味不明でした。死にそうになりながら最後まで読みましたがさっぱりわかりません。私の頭が足りないのか訳が悪いのか著者がアホなのかすらわかりません。ここから得た知識は「人間どんなことを基盤にしても生きられるものなのだなあ」という分かったような口をきくことくらいでした。

数年経ち、目に留まったのが本書です。経済学大図鑑と同じく、年代順に107人もの哲学者をずらずらと並べ、ひたすら解説していくというスタイルをとります。本書はシュヴェーグラーのものとは違い、極めて分かりやすかったです。著者は経済学大図鑑の人とは違いますが訳は同じ小須田さんです。訳者の専門ど真ん中だったことも分かりやすさに寄与しているようです。

分量は哲学者によって異なり、一人当たり1P~6Pの解説がなされます。著者が重点的に解説しようと思った人については長くなっているようです。ブッダや老子、田辺元、和辻哲郎、イスラム思想家など東洋の思想家についても取り上げられているのが特徴的です。訳者のあとがきによると著者は哲学の根本特徴である「理性的推論」に重点を置き、解説もこの視点からなされ類書と比べるとかなり斬新な解釈がなされているそうです。

以下では私が気に入った哲学者を5人紹介します。

5位 ウイリアム・ジェイムズ(1842-1910)

ジェイムズはアメリカ人。「プラグマティズム」という、真理を有用性に認める立場を確立した哲学者です。彼は、真理は絶対的1つのものではなく時と共に移り変わるものであると考えます。例えば地球が平らだと信じられていた時代はそれが真理であり、その時代においては十分機能していました。しかし時代が進みコロンブスの時代では地球が平らである解釈していたのでは不都合が起きます。そこで真理は「地球は丸い」へ変化することが要請されます。ここからジェイムズは、真理とは内在するものではなく我々の観念の中に「生じる」ものである、真理は真理に「なっていく」、様々な出来ことによって「真理にされる」ものであると推察します。

ジェイムズの論理の魅力的な点は、この考察から真理がダイナミックで動的なものとなる点です。一見して荒唐無稽な信念もその有用性が評価されれば彼の論に照らせば真理となります。新しい真理が次々と生まれますし、多様な真理の束が構成されることが期待されます。ただしその真理の有用性は、非常に厳密に評価されなければなりません。そして、信念が本当に真理であるのかどうかは私たちが生きている現在には決して評価しえず、あとになって振り返ってはじめて真理であったかどうかが分かります。とても厳しい考えですが、豊富な可能性を感じさせるジェイムズの考え方は好きになりました。

自分のなすことがちがいをもたらすかのようにふるまえ。そうすればそうなる。

4位 デイヴィド・ヒューム(1711-1776)

スコットランドのエディンバラ生まれのヒュームは、「イギリス経験論者」と言われるそうです。当時支配的だった考え方はデカルトによって打ち立てられた「合理主義」でした。人間が「生得概念」をもって生まれてくるとし、これを原理としてあらゆる知識には理性によって到達できるという理性バンザイな考え方でした。ヒュームは、そんなもんないんじゃね?とこれらを攻撃します。

例えば「AがBを引き起こす」という言明があったとします。例えば「明日になると太陽が昇る」という言明です。これは経験的には必ずそうなのですが未来永劫続くとは限りません。なぜなら未来の事象は観察できないからです。ヒュームはこれを突き詰めて、「科学的・帰納的推論はすべて論理的ではない」と結論します。どこまで推論を厳密にしても、論理的でない以上、それは信念もしくは蓋然的な習慣に過ぎません。科学が習慣にすぎないという主張はラディカルでびっくりするものでしたが、言われてみればその通りです。

ただしヒュームは科学が習慣だからと言ってそれが無意味だと説くわけではありません。むしろ理にかなったことであると考えていました。私達が信念によって引き出した結論は「論証的な結論と同じくらいに精神にとって満足のゆくものなのだ」と述べています。なんだかジェイムズとかぶってますね。ヒュームのことも、私がそう信じたいので気に入ったのでしょう。

習慣は人間生活の偉大なガイドだ。

3位 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)

ドイツはウィーン生まれのウィトゲンシュタインは、高機能自閉症の疑いがあると言われています。これだけでも気になる人なのですが、本書の解説によれば彼が目指したのは 「世界と言語の構造化」です。おお、めっちゃシステム化ド直球やん!しかも、両者はすべて構成要素に分解可能であると言い切っているそうです。希望が持てます。

ウィトゲンシュタインは、世界は命題で成り立っていると考えました。命題とは「波平はハゲだ」のように真偽が決定できる主張のことです。これを主著『論理哲学論考』の冒頭で「世界とは成立していることがらの総体だ」と表現しているそうです。

さらにウィトゲンシュタインは言語が世界を「写像」化していると主張します。写像とは数学的にはある世界の1つのものと別世界の1つのものを、1対1で対応させることです。つまり言語は世界のマッピングであるというわけです。地図を思い起こしていた抱ければよいと思います。地図上では、現実世界と紙の上の世界が1対1で対応しています。言語と世界は独立した論理形式をもつが、写像の働きにより私たちは世界を語ることができると彼は考えました。

私の言語の限界が私の世界の限界だ。

ところが世界が命題で成り立っているので、言語も命題で成り立っている、したがって真偽が判断できないこと、例えば倫理学や宗教は言語で語りえないとヴィトゲンシュタインは結論してしまいました。

語りえないことについては沈黙するほかない。

後年ヴィトゲンシュタインはこの考えを改めていくらしいですが、本書では詳しく触れられていません。言語によるマッピング・写像という考え方は私の世界観と激しくマッチするのでとても興味がありますが、のちにどうして考えを変えていったのかとても興味のある人です。

2位 ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)

フランスの現代哲学者サルトルは、ボーヴォワールとの奇妙な生活が取り上げられることが多いようですが、本書によれば彼は「自由」を考え抜いた哲学者であったようです。

実存は本質に先立つ。

サルトルはペーパーナイフを例にとって上記の言明の説明をしました。ペーパーナイフの本質は包装を開くことです。効率的に包装を開くためには、人間工学的にデザインされた持ち手や、スムーズに切れる鋭い刃が必要です。そしてこれを設計するためには、ペーパーナイフの本質を理解する職人という実存が必要です。言い換えると、ペーパーナイフは目的・本質が先行し結果として実存しているのではなく、人間という実存が先立っているということです。

西洋で本質とされるのはもちろん神です。サルトルは神が先にあったのではない、人間が先にあるのだ、と考える無神論者でした。神は人生に目的を与えます。神学者はそれを人間の本質と考えます。サルトルはそんな強いられた本質なんかやなこったと考える人間でした。

自由には制約があります。例えば私たちは羽をもたないので飛べません。食わなければ死にます。しかし有限とはいえ私たちには選択の自由があります。無意識的に習慣のまま行動するのではなく、どう行動するか選択に向き合わなければならないというのがサルトルの主張でした。このため彼は政治的活動に積極的に関与していくそうです。

人間は自由の刑に処せられている

また、自由とは責任を伴うものです。なぜなら外部的なものに制約されないということは、同時に外部に自分を正当化する根拠が何もないということだからです。自分の行動に言い訳は許されません。なかなかヘビーな概念ですが、これは以前読んだ「7つの習慣」で言われていたことと全く同じですね。

自由についての彼の考え方は大好きです。フランスの個人主義はサルトルの影響を強く受けているそうです。私がなんとなくフランスに憧れて大学でフランス語を選択したのはあながち間違っていませんでした。彼の著作は必ず読んでみたいと思います。

1位 ゲオルク・ヘーゲル (1770-1831)

ヘーゲルはいわゆる「ドイツ観念論」と呼ばれる学者の代表だそうです。昨日の記事でも書きましたが、ヘーゲルは「弁証法」の提唱者です。弁証法は、あらゆる観念は完全なものではありえずかならず矛盾を含むものである、という考えを基礎とします。かれは観念を「定立」と呼び、内部の矛盾を「反定立」と呼びました。そしてこの矛盾は「綜合」という一層豊かな内容を持った観念が、もともとの観念それ自体から出現して解消する、というプロセスを辿ると考えました。「定立」の観念は私たちの理解が足りなかったために「反定立」が見えてきたのであって、「綜合」によってより正確な観念が把握できるようになったと考えます。これが弁証法です。

真理とは全体だ。

この論理の何が魅力かというと、その発展性です。定立はどこまでも拡大させることができますが、どこまでいっても「綜合」の余地があるということですから、無限大に広がることができます。そのイメージに私は魅了されてしまいました。動的に自己増殖可能な観念、それを身につけられたらどれだけ素晴らしいことか。

番外 フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)

キリスト教に壮大なケンカを売った人間です。本書で唯一爆笑した人物でした。死後の世界を信じているために現実の世界を置き去りにしているキリスト教や、「真」なるものが存在すると主張し現実世界はくだらないものだとするプラトン達のことが本当に気に入らなかったようです。すげー厨二めいたものを感じますがぜひ読んでみたい思想家でした。

振り返って

気に入った哲学者には偏りがあります。ジェイムズ、ヒューム、サルトル、ニーチェといわゆる「真なるもの」への私の疑念がそのまんま形になっているようです。ヘーゲルの思想は憧れです。ますますもって歴史を学ぶことの必要性が明らかになりました。

次は彼らの思想を原著でたくさん読んでみたいですがきっとすごく難しいんだろうなあ。

 

 

参考書籍

 

今回は多いです。100冊くらい読みたい本が増えた

 

ジェイムズ

ウィリアム・ジェイムズ入門―賢く生きる哲学

ウィリアム・ジェイムズ入門―賢く生きる哲学

 

 

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)

 

 

ヒューム

人性論 (中公クラシックス)

人性論 (中公クラシックス)

 

 

社会契約論: ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ (ちくま新書 1039)

社会契約論: ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ (ちくま新書 1039)

 

 

ウィトゲンシュタイン

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

 

 

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

 

 

サルトル

 

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

 

サルトル 失われた直接性をもとめて シリーズ・哲学のエッセンス

サルトル 失われた直接性をもとめて シリーズ・哲学のエッセンス

 

サルトル本の邦訳はあんまり出てないのでフランス語を極めないとだめかも

 

ヘーゲル

精神現象学

精神現象学

 

 

歴史哲学講義 (上) (岩波文庫)

歴史哲学講義 (上) (岩波文庫)

 

 

使える 弁証法

使える 弁証法

 

 なんじゃこりゃ

 

ニーチェ

ツァラトゥストラは こう言った 上 (岩波文庫)

ツァラトゥストラは こう言った 上 (岩波文庫)

 

 

道徳の系譜 (岩波文庫)

道徳の系譜 (岩波文庫)

 

 

善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)

善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

他に気になった人。

 

ゴータマ・シッダールタ(釈迦)

スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳 (講談社学術文庫)

スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳 (講談社学術文庫)

 

 

トマス=アクィナス

神学大全I (中公クラシックス)

神学大全I (中公クラシックス)

 

 

モンテーニュ

エセー 1 (岩波文庫 赤 509-1)

エセー 1 (岩波文庫 赤 509-1)

 

 

ウルストンクラフト

フェミニズムの古典と現代―甦るウルストンクラフト

フェミニズムの古典と現代―甦るウルストンクラフト

 

 

ルソー

エミール 上 (岩波文庫)

エミール 上 (岩波文庫)

 

 

ショーペンハウアー

意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)

意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)

 

 

ソシュール

一般言語学講義

一般言語学講義

 

 

ラッセル

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

 

 

クワイン

ことばと対象(双書プロブレーマタ3)

ことばと対象(双書プロブレーマタ3)

 

 

 デリダ

声と現象 (ちくま学芸文庫)

声と現象 (ちくま学芸文庫)

 

 

リオタール

ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

 

 

 ボーヴォワール

決定版 第二の性〈1〉事実と神話

決定版 第二の性〈1〉事実と神話

 

 


書籍レビュー: 極右の統合失調、極左の自閉 『ひき裂かれた自己―分裂病と分裂病質の実存的研究』 著: R.D.レイン

★★★★★

 

著者のR.D.レイン(1927-1989)は「反精神医学」を掲げたイギリスの精神科医です。精神病棟に患者を隔離するのは人権侵害だとし、患者を実存的に理解し治療することで地域に開放することを目指した、当時としては急進的な活動家だったそうです。現代では精神病棟の需要は減りました。皮肉なことに、その原因は患者を理解することからはかけ離れている向精神薬の発展によるものです。

統合失調症、統合失調的気質の原理と彼らとの対話

本書は統合失調症(本書刊行時は精神分裂病)の原理を理論づけて病理に至るまでの道筋を明らかにし、臨床例を引用しながら彼らとの対話と理解を試みる目的で執筆された本です。

「実存的研究」とは、彼の当時の精神医学に対する批判が強く込められたタイトルです。当時はフロイト精神学が氾濫し、患者の病理を過去の性的コンプレックスと結び付けたり、患者の言葉とは異なる「精神医学用語」でカテゴライズして患者を理解することが主流でした。レインはこの姿勢に疑問を呈し、「患者の病理は患者の言葉で語られるべきである」というアプローチで彼らと向き合いました。とくに終盤の「一分裂病者の自己とにせ自己」「庭園にたつ影」ではレインが患者の作り出した世界の中に入り込んで、病理を分析していく様子が具体例と共に生々しく描かれており、文学作品として読んでも一級品です。

序盤~中盤にかけては、統合失調症の理論的概念の構築がなされます。これらは最初の章「人間の科学のための実存的-現象学的基盤」で断言される通り、可能な限り日常語をもって記述されており、門外漢でもそれなりに(私には時間がかかりましたが)理解することが可能です。以下、私なりの理解を書いていきます。

統合失調症まとめ

統合失調症患者と言うのは、他人の心情を「極端に読み過ぎる」人々です。彼らは他人の期待に正確に応えることをいとも容易く行うことができ、自己を完全に空虚にして他人そのものになりきってしまうレベルまで達することが可能です。

また、彼らは総じて自己肯定感がないか、非常に乏しいことが特徴です。これは先天的な場合も、暴力を受けるなどして後天的に失われることもあるでしょう。自己はきわめて弱いものとなるがゆえに、彼らは自己を外側に出さなくなります。彼らは自己と世界との接点が「にせ自己」を通して行われていると認識しています。「にせ自己」とは、現代的にいえば「ペルソナ」「仮面」みたいなものです。通常の人間は世界と関わるインターフェースは自分自身だと意識しています。これが「正気」です。統合失調症患者は世界とのインターフェースは「自分ではない何か」を通して行われていると認識しています。自分ではない想像上の人間が外側に向かって会話をし、動いているのです。

ふつう人間は、極めて幼い頃に「自己-他者の境界線」を確立します。いわゆる「アイデンティティの確立」です。15年前に椎名林檎が歌って有名になりましたね。「私は私であって他の誰でもない」という自然で健康的な感覚のことです。自己と他者の境界線は親との関係の構築の失敗に起因することが多いようです。

以上3つの条件が揃うと、成長に伴い病理が表出します。というのも、これら3つの要因は原理的に増幅しあう関係となっているからです。過剰に他人の期待に応えることが常態化すると、ただでさえ委縮しがちな自己がさらにしぼんでいきます。自己と他者の境界線が薄ければ、弱い自己は他者に侵略されまいと「にせ自己」をさらに強化し増殖させます。しかし「にせ自己」が膨張すればやがて「自己」を押しつぶしてしまうことは明白です。

やがて彼らは自己を喪失したと感じます。彼らの中には「にせ自己」しか残っていません。精神世界はバーチャルな幻想的な世界に変化し、しかも「にせ自己」は複数ありますから、論理的整合性も失われます。これが彼らの話現実感のなさと文脈がすぐにぶっ飛ぶ理由です。また、典型的な症状である被害妄想は次のように説明できます。普通の人間は「自己」が「他者」に語りかけて他者に何らかの反応を引き出そうとします。しかし彼らは「自己」「他者」の区別がつかなくなっている上にその境界線の意識もありませんから、「他者」が超弱い「自己」を直接操作し脅かすことができると認識します。すると「あなたは私を殺すと考えている」「電波で殺される」というようなよくある妄想が生まれるというわけです。

参考文章

【1541】皆と同じようにipodの手術を受けたい

まだまだ盛り込まなければいけない条件や理論はたくさんあるのですが、単純化すると大体以上のようなことになると思います。

動機

さて、私がこの本を読もうと思った直接のきっかけになったのは次のイミさんと言う人の記事でした。

彼は文章がうまく本書の内容については私のまとめよりも優れていますので、時間がある人は読んでみてください。

 

私は自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)という診断を8年ほど前に受けました。統合失調症の病理は、表面だけ見ると「他人とのコミュニケーション不全」「世界の了解の仕方が通常人と異なる」という現れ方をするので、自閉症と共通するところがあります。彼らの生きづらさ生きにくさを知ることで何か自分の理解に参考になるのではないかと思ってこの本を取り寄せ、読んでみようと思った次第です。

感想

さて読んでみると、、彼らには全く共感できませんでした!!全く!!!

レインの分析を読んでいくと、共感できないのは当たり前です。だって彼らは「他人の感情を過剰に読み過ぎてしまう人」達なんですもの。どうやったって他人の感情なんぞ読めるわけがない自閉症患者とは、両極端に離れている存在だということが分かりました。

先日読んだ広沢先生の著書でも「自閉症と統合失調症は根本的に異なる」「統合失調症は一般人の心の理論アプローチから理解可能だが、自閉症は体系そのものが異なるため、新しい理論が必要となる」と書かれていましたが、まさにその通りでした。

読み違い?

さて上記のイミさんのブログは根本的な読み違いをしていると思います。

この本の力点は、身体と精神の分離、分離することによる自己の「石化」「モノ化」です。他人の「モノ化」については1Pしか記述はありません。それはあくまでの自己の「石化」を防ぐための数多くの手段の1つでしかありませんでした。後半で出てくる臨床例でも他人の「石化」の記述はありません。破壊衝動が向けられるのは自分です。彼らの関心は自己を殺しつくすことにあるからです。そして、彼らに自意識は存在しません。他人と融合してほんのわずかしかない自意識を喪失してしまうことが統合失調症の本質だからです。

ですので何故共感したのかわかりません。私も共感できませんでしたが。とはいえ、彼らに共感することが目的で本書を読むわけではないでしょうから、分裂病うんぬんは完全に脇に置いておいて、このテキストの一部分を抜き出して自己について見直すきっかけになったのなら、それはそれで正しい読み方ともいえます。

自閉症と統合失調症の共通点、非共通点

次の箇所を読むとさらに、彼らの根本的な自意識のなさが明らかになると思います。私が一番衝撃を受けた箇所でもあります。レインが担当していた、ある回復へ向かった女性患者の次の告白に基づくものです。

私が存在するのは、あなたがそう望んだからに過ぎないのです。そして私は、あなたが見たいとおりのものでしかありえません。私は、あなたのなかに私の惹き起こした反応のゆえに、自分を現実と感じることができたにすぎません。もし、あなたをひっかいても、あなたがそれをお感じにならなかったのだったら、そのとき私は本当に死んでいたことでしょう。

あなたが私の中に善を見たとしたら、そのときだけ私は善でありえたのです。私はあなたの目を通して私自身を見た時にだけ、何か善なるものを見ることができたのです。でなければ、私は皆に憎まれる、飢えた、人を嫌がらせる餓鬼として自分を見るにすぎず、そしてこのような生き方をしているということで自分自身を憎んだに違いありません。そして、飢えのために、胃をむしり取ろうとしたに違いありません。(P243)

なんと、彼女が回復に向かったのは、レインの「あなたは存在する」と認識する自己と彼女自分の自己を一体化したためだって言うんですよ!!マジで驚きました。とことん自分の自己なんてものは存在しないみたいです。

そしてここに自閉症患者との表面的な共通点と差異も見出すことができました。自閉症者は、通常の人間とは違う方法で世界を把握します。上記の広沢先生の本でfolk physicsと呼ばれている方法、つまり世界から心的共感能力を排除し、理論的な枠組みだけで世界を理解する方法です。一般的な常識である共感をベースとしていないので、世界との関係は必ずきわめてぎこちないものとなります。このぎこちなさ、不自然さが統合失調症と自閉症の表面的な共通点です。しかし根本的な原理はこれほどまでに異なります。

ですので、自閉症者が統合失調症になることは、ありえないのではないかと思いました。もちろんこれはレインも述べているように過度に単純化したモデルでしかも想像上のものですから、これをひっくり返すような知見も見受けられるでしょう。しかし直感的には、自閉症者と統合失調症者は、とてつもなく対照的な存在でした。共感の右翼が統合失調、非共感の左翼が自閉症といったイメージを持ちました(右と左は適当です)。

結局自分についての理解は深まりませんでしたが、彼らの世界を覗くことができたのは「定型発達者の」ことを理解する一端になりそうです。

レインすごすぎ

ところで本書は著者が28歳のときに書かれた本だそうです。どうやったら28歳でこんな緻密で堅牢な文章が書けるんでしょうね。すごすぎます。

また、統合失調症患者の世界は本質的に独特で理解するのに時間も負担もかかり、また彼らの世界を構築するにあたって自らの世界が破壊される恐れも高いというのに、レインはこれを何人もの患者にたいしてやってのけ、しかも彼らより進んだ解釈を本書でもたらしてくれるのです。彼のあとに後進が続いてない(らしいです)ことからも、レインの取ったアプローチの特異性と彼の能力の高さが現れていると思います。

 

 

 

参考文献

自伝です。いつか必ず読みます。

レインわが半生―精神医学への道 (岩波現代文庫―学術)

レインわが半生―精神医学への道 (岩波現代文庫―学術)

 

 

 共感を学ぶために。

好き? 好き? 大好き?―対話と詩のあそび

好き? 好き? 大好き?―対話と詩のあそび

 

 

絶望を理解したいなら読めとレインが言っていました。

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

 

 

レインの友達。

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

 

 

引用されていました。

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

 

 


書籍レビュー: きっと、楽になれる 『ひとを「嫌う」ということ』 著: 中島義道

★★★★★_(┐「ε:)_

ひねくれた哲学者による「嫌い」論

著者の中島義道(1946-)さんは、ドイツ哲学者?です。しかし彼は学者という言葉が嫌いで、反社会的な面の強い異端な人です。それもそのはず、大学を卒業するのに12年かかる、東大助手から何故かぶっ飛んで電通大の教授に収まる、などとても変わったキャリアの持ち主なのです。ここら辺の経歴は彼の膨大な著書の中に書いてあるでしょうからまた読んでみようと思います。

「嫌う」ことは自然である

本書で繰り返し繰り返し主張されることは「嫌う」ことの自然性です。

私はまず、われわれは誰でも他人を嫌うこと、しかも――残酷なことに――理不尽に嫌うということを教えたい。

嫌うことは誰にでも当たり前に生じる、ある意味精神的に健全なしるしです。これを大人が「人を嫌ってはいけない」という道徳をもって説き伏せることにより、我々には嫌うことへの絶対的禁止が植えつけられます。人を嫌う奴は人間失格だ、カスだという観念が浸透します。しかし嫌うということは自然に生じるので、われわれは罪悪感を感じ精神的に引き裂かれます。著者に言わせればこんなものは欺瞞です。大人は、まず「嫌う」ことが当然であるということを教えるべきだと主張します。書いていて気づきましたが人を嫌う奴が人間失格だというのも「嫌う」ことですから矛盾してますね。

「嫌う」ことは本質的に不合理

本書では嫌うことの段階を8つに分け、最後に「相手に対する生理的・観念的な拒絶反応」というレベルを設定しています。嫌うということは雪だるま式にどんどん自己増殖していき最終的に「その人だから嫌う」という段階に至ります。ここまでくると嫌うことをやめることは一生不可能です。しかも、「その人だから嫌う」と、具体的な理由がないので不合理です。しかし私たちはこのようにして人を嫌います。人間の感情なんて元来不合理なものです。でもそこから逃れることはできません。いかにして「嫌い」と付き合うのか、それを一生かけて考えるのが健全である、と著者は主張しているように思います。

自己嫌悪=自己愛

自己嫌悪と自己愛は表裏一体である。これは自分でも自覚していたことなので中島さんに指摘してもらってとてもうれしいです。自己嫌悪と自己愛については明日別の本の書評で書きます。

個人的なこと

この本は、友人Aとのあるやり取りの中で「嫌う」ということを議論した(議論したのは生まれて初めて)ことにより興味がわき、つい手に取ってしまいました。議論の内容は私にとっては感動的なものでしたが、プライバシー保護のため詳細は控えます。私たちは会話の末、「嫌う」ことはいけないことで認めたくないことだが、どうしようもない止められない。相手にぶつけてしまうか、距離を置くかいずれかしか解決方法はない、、という結論に達しました。今思えば我々は「嫌ってはいけない」という紋切り型の観念に囚われていたことになります。

友人に本書をプレゼントしたいと思っています。そうすれば、彼はきっと、楽になれる。

終わりに

本書は著者の個人的な、家族に嫌われるという経験に端を発していると思われます。そして「嫌う」ことの原因を追究し、まとめあげ、心の安定を得ます(完全に安定するわけではないですが)。物凄く個人的で、わがままな動機です。そして彼は、自分でも自覚しているように自尊心が高い。何もかも言わずにはいられない、表現して他人に読んでもらいたい。表現者とはみなそのような傾向がある、と著者は自ら話します。その通りだと思います。しかしそのような表現者によって我々は多くの知見を得、救われ、糧にすることができるのです。とてもありがたいことです。

 

あとがきのオチで私は感動してしまいました。

 

 

関連書籍

 

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プラトン – ソクラテスの弁明・クリトン


★★★★★(´・-・。)
おそらく世界でいちばん有名な哲学書(むしろ物語?)。昔背伸びして買った古い岩波文庫が眠っていたので読んだ。対話篇と称されるように全編が実在の裁判に沿ったソクラテスの一人語りでできており、彼の弁論がソクラテスという思想家を構成する仕組みとなっている。物語形式であるためか文章は明快で、哲学に全く明るくない私でも通勤の往復時間(2時間くらい)で読み通すことができた。
本編は高校倫理などでおなじみ「無知の知」を核とする。彼はいわゆる知識人・偉大な人物と称される人間に会い、どれだけすごい人物かと期待し対話するのだが果たして自分より賢くないことが分かってがっかりする、ということを繰り返すうちに、勘違い知ったか野郎の目を覚ましてやることを生きる目的とするようになった。ソクラテスは言う、「彼らは自分が何も知らないのだということを分かっていない」と。そして真に賢明なのは神のみで、人間には何も知ることができないということこそが智慧であると主張する。このことを弁えている自分は彼らより賢い。
こう言うのだから自称知識人達を敵に回して当然である。ざっくりまとめてしまうとソクラテスは真実を言い当てられた人間たちの手で死刑に処される。詳しくはweb上で読める日本語訳があるのでこちらを読んでいただきたい。序文は後で読んだ方が良いかも。
彼が何も知らない・知ることができないと語るのは、少し前に読んだソロスの思想とも通じる。驚くことに、西洋哲学数千年の歴史をもってしても、人間が何も知らないという事実は全く揺らがなかった。私も実感として、さまざまな書物を読むにつけ、私だけではなく人類も何も知らないのだという事実だけが積み重なっていくのがわかる。知ったつもりになっている人間は須らく間違っている。ラストでソクラテスが「私が死んだ後、私の息子がひとかどの人物になったような気になっていたら君たち諌めてくれ」と言うのが切ない。
クリトンはこの話の後日談、ソクラテスの友人クリトンが脱獄を薦めるものの、ソクラテスに説得され諦めるという話。この説得は国家への完全なる服従が前提となっている。詳しくは当時のギリシャに関する書物を読まないとわからないが、彼の言い分からするとアテナイ市民は国家を相手に保護と服従のギブ&テイクの厳格な契約をしたことになっている。契約に不満があれば国家を勝手に出ていってもいいらしい。これを前提として、私は国家から70年も出ていななかった、つまり国の論理に従って生きることを選択した以上、私はこの国の法に則らねばならない、これを破って脱獄するのは国を破壊する行為であり正しくない、と言うのが彼の主張の骨子だ。ああ彼らは大陸人なんだなぁと思った。日本人のような島国の国民にとって国家からの脱出は難しい。言葉の壁も大きい。また現代の人権思想を軸とした見かけ上ゆるい統治体制のせいで、国家を相手に契約した覚えなんかないよ、という人間が大多数だろうと思う。そんな私たちにとってはソクラテス国なんかに殺されて馬鹿じゃねーの逃げろよ!と反発を覚える内容だが、当時のギリシャ人から見れば我々こそ間違っていることになるだろう。
この作品からは理性・論理への完全な信頼が伺える。感情から生まれる非論理的思考を徹底的に排除し、議論によって正しい論理だけを採用する。ソクラテスは自分が正しくないと心の底で感じたとき、「ダイモニオンの声」が聞こえるという。これが何であるかは様々な解釈があると思われるが私は「良心」や「第六感」のようなものだと感じた。ソクラテスはこの声を裏切ることは決してできなかった。どこまでも正しい人であった。そして正しいがゆえに彼は死なねばならなかった。
個人的には、当作品にはこれまでに自称知識人を叩きのめしてきた過程が全く書かれていないので、具体的にどうやって論破するのかを知りたい。


クリティカル・シンキング―「思考」と「行動」を高める基礎講座


★★★★☆
ブックオフでタイトルに惹かれて購入。ブックオフは新本屋の敵だけれど、我々貧乏人にとってはゴールドラッシュだ。ただし都市部の大型店に限る。新宿西口店は100円コーナーですら山のような一般書があり感動した。近くの西新宿小滝橋通り店とは月とスッポンだ。小型店はマンガくらいしか見るものが無い。といっても、地方だと大型店ですらほとんど漫画とゲームソフトばっかりだが。
クリティカル・シンキングと大仰な用語が付けられているが、一言でいうと「理性に照らして妥当かどうか考えよ」とまとめられる。本全体がこれの言い換えに過ぎない。その考えは権威に従っているだけではないか、自分の感情による非理性的なバイアスがかかっているのではないか、根拠があるのか、その根拠は正しいか、信頼できるか、基準があるか、、、などなど。
この本は原書の半分程度しか抽出されていないと冒頭にあった。いきなりがっかり。内容自体は、amazonでボロカスに言われているようなものではない。訳も素直に読めたので悪いわけではない。失礼だが、内容が理解できなかったんだと思う。。
抽出した箇所は特に自己中心性の認識、修正に重点が置かれていると感じた。自己中心性は、自己の中にあるがゆえに自分で意識することが非常に難しい。自分の中の第三者の力を使って認識しなければいけないからだ。したがって自らの誤りは他人に指摘される可能性の方が高い。ところが私たちは自分が間違っているとは思いたくない。自分を変えることには大きなエネルギーが必要であるから、できるだけ避けたいと思う。私たちは問題をすり替えたり、非論理的に反駁したり、最終的には無視することでエネルギー消費を節約している。この本は理性の力で誤りを正し、客観的妥当的な思考を養うことが目的だ。自己欺瞞を自分の力で発見し修正するのは困難だ。本書に指摘されて治るのならこんな良いことはない。
この本の欠点は概念的な解説が大部分を占め、具体的な記述が不足していることだ。学生向けに書かれたと思われ、ワークショップ形式の設問が多い。なので授業で使ってみて初めて意味がある。読むだけでは得られるものは少ない。なお回答例は邦訳者が追記したと思われる。携帯メールの良しあしなど卑近な例に問題が落とし込まれてしまい、今どきの大学生ならちょうどいいのかもしれないがいい年をした自分にとっては不満だ。多数存在する設問に、自分なりに回答を出してみる必要がある。
自分としてはここ10年何となく考えてきたことがほぼそのまま書いてあることが多く、思考が文章化されてとても助かった。