模倣、受動、オリジナリティ

自分の言葉で話さない人間が増えているという。私もその一人だと感じている。
私は、今に至るまで言葉も行動も並べて模倣することにより生きてきた。
何かを教えてもらったことはない。ただ人と同じことをすることで過ごした。
親がゲームをするのでゲームをするようになり、友人が恋人を作ったという理由で自分も作ろうとし、受験勉強のシーズンと言われればそれに乗っかって勉強した。
結婚して大学を中退して親に反発し、ここで初めて独自の生活を送るようにも思ったが、振り返ってみればその後の生活は家族に合わせているだけだ。
もともと自分の意見はなかった。ただ周りに従って生きているだけだった。

このように受動的であることが焦げ付いた習慣になっていれば、自分の言葉は生まれない。
どこかで聞いた言葉を切り貼りして日本語を話し、他人の意見を自分の意見と思い込んで述べることしかできない。

とはいえ、厳密にはすべての人間は自分の言葉など持っていない。任意に文字を取ってきて あええとぶごれんもじゃのを と言っても誰にも通じない。他人に通用する言葉は最低一度は使われたことのある言葉なのだから、自分のものではない言葉しか人間は話せない。
問題は言語の構築の方にある。言葉の組み合わせや流れのパターンは無限にある。
誰でも使えて色も見知っている鉛筆で無限通りの絵が描けるのと同じだ。
自分の言葉で話せる、とは言葉の選択と組み合わせが独自のものであることなのだ。

独自の考え方や生き方は、それまでに積み重ねた人生によってしか生まれ得ない。
独自性は受動的なままでは生まれない。形成的(これも借りた言葉)に生きなければならない。インプットとアウトプットのバランスが取れるようにしないといけない。


言葉2

言葉は表象であり、媒介である。言葉自身は、物事そのものを表さない。ある物事にアクセスするためのキーとなるにすぎない。
自分が発した言葉を他人が聞いて、自分と全く同じものを思い浮かべることはまずありえない。それどころか、自分自身、ある言葉に対して抱くイメージは時と場所によって変化する。
しかし我々は自分と同じイメージを抱くであろうと期待し、またそのように努力して、毎日言葉を発する。

言葉は表現だ。他の人間に、自分の抱くイメージ、感情、抽象的概念、物語などを確実に伝えるために表現する。
ある物事を正確にとらえ、自らの意図したイメージを喚起するための言葉を丹念に選び、精巧に組み立て、発信する。素材となる言葉が不正確であったり構成が悪ければ、他人には伝わらない。誤解を招く。我々はみな職人であり、芸術家である。


言葉とイメージ

ある言葉から与えられるイメージは人によって質も量も異なる。例えば空、という言葉を見た・聞いたときに喚起されるイメージは千差万別だ。
イメージは絵、音、匂い、温度、言葉などで表現される。そしてそのイメージからまた言葉が生まれ、文章や会話が連鎖的に成立していく。イメージが貧弱なら、言葉はしぼんでいって尽きて終了する。
言葉からどれだけのイメージを引き出せるかは、言葉を発する・聞く人間の言葉の蓄積、イメージの蓄積に依存する。人間そのものが問われている。
会話は化学反応みたいなものかもしれない。ポテンシャルの高い人間同士がぶつかれば、爆発的に言葉が生まれるだろう。相手にとってふさわしくない言葉を選べば、有毒なガスが発生するだろう。


正義

人間は自己の正当化に大きなエネルギーを注ぐ。自己保存、自己防衛のためだ。誰だってアイデンティティがぐらつくのを好きではない。安心して平穏な日常を送りたい。
正当化には種々の方法がある。よく見られるのが、自らに権威を与えることだ。「世界一になれば他人が文句を言わなくなる」「教授であるこの私の判断が間違っているわけがない」など。虚栄心とセットになることが多い。外面的な鎧をまとって内面を隠し、権威の威光によって相手の目を曇らせる。大抵の人間はひるむが、ときどき中身を見通せる人間(賢人)や権威が見えない人間(バカ)がいるので通用しないこともある。

続く


発見、体験、解像度

自然が多い土地で育った。山がいつも見える。虫も木も川もあった。でも自然についてあまりに無知だった。自分は自然の中にいて自然を発見していなかったのだ。
山を見れば木が生えている。雲がかかっている。森に無数の生物が暮らしている。春夏秋冬で色も生物も異なる。朝と夜でも違う。雨が上がった日は緑色が映える。
これらは発見して初めて、知識や経験となる。山が物理的スペースを占めていても、それを発見しない人間にとっては存在していないことに等しい。
あらゆる物事は無限に分割することができ、視点も無限に存在する。どのような物事でも単一ではありえない。
毎日の生活の中で、どんな単純に見える物事の中にも発見があるはずだ。
ぼんやり見ているだけの世界は単純で安定しているが平板で多様性に乏しく、そこから思考も思想も生まれない。
生活を見るための解像度を上げねばならない。あらゆる物事からできるだけ多くを感じ取り、組み合せ、混合し、総括する。
材料が多くなくては思考できない。材料は多いほどよい。混ぜる技術は訓練によって体得できるが、その前提として、物事を見る目が鋭くなくてはならない。


思考と文字と訓練

ある「考え」が頭に浮かんだ。
それは何らかの思考の過程で生まれたものかもしれないし、他との関連なく天から降ってきたものかもしれない。
いずれにしても初めの段階では、その「考え」には裏付けがない。ごく直観的なものだ。なんとなく、漠然と、全体的に、感覚的に、頭脳が言葉のピースを選択して盤上のしかるべき位置を推測して置いたに過ぎない。
裏付けるためには理性の働きが必要だ。ピースの周りを言葉を尽くして埋めていかなくては、せっかくの「考え」はただ盤上で一人きりになってしまう。そのピースは位置や向きが違うかもしれない。嵌めてみたら形が合わないかもしれない。そもそも全く別のセットから持ってきたピースかもしれない。

理性の働きを頭脳の中だけで完結させるためには高度な訓練が必要だ。まず、ある「考え」の同一性を長時間保持することは困難である。頭脳内の化学物質が流動するのと同じく、思考も流動する。理性や思考を直接見ることはできないので、その同一性を検証することは難しい。
次に、思考は一次元の線上で行うものではない。同時に複数の視点から問題を見つめなければならない。二次元、三次元、場合によっては四次元以上の並列処理が必須である。これを頭脳内で行うのは至難だ。

ここで文字の出番である。文字があってこそ、思考を固定化することができ、外部化することによって容易に客観的な検証ができる。順序の入れ替えや言葉の取捨選択も楽だし、頭脳と違って時間や時空の制限もない。文字列自体は一次元だが、二次元以上の思考は前後の文章との関連性を見る、行間を読むなどの技術によって可能になる。しかも一度書いてしまえば、紙やデータを紛失しない限り、半永久的に忘れない。文字は偉大だ。文字なくして文明なし。

頭脳の中だけで明快に思考できるようになりたいものだ。


トリガー

何か刺激がないと、思考は生まれない。刺激は外からやってくる。読んだ本、見た番組、その日起こった出来事。。しかし、内側からやってくる刺激もある。それは絶えざる内省から生まれる。あのときこうすればよかった、あの考えは今思うとおかしい、このような見方もあることに気が付いた、etc… 内側からものを考えられる人を尊敬する。

そして刺激が激しい相互作用を引き起こし細胞を活性化するためには、知識と知恵が必要だ。
無からは何も生まれない。宇宙に石を投げても、石が飛んでいく以上のことは起こらない。
しかし海に石を投げれば水面が揺れる。揺れは全方位に伝わり、さまざまな場所に影響を及ぼす。石は海の底に落ち、小さなヤドカリを眠りから覚ますかもしれない。


アイデンティティ

新・三銃士の第一回を観た。舞台はフランス、国王ルイ13世と枢機卿リシュリューの二大勢力が争う時代。主人公の父ベルトランは元々国王に仕える銃士隊の一員であったが、かつて同じ隊にいた戦友ロシュフォールは枢機卿に仕えていた。ロシュフォールは枢機卿の命令で、ベルトランを暗殺する。

主人公の父ベルトランは言う、
「国王万歳!」
かつての戦友ロシュフォールは言う、
「枢機卿万歳!」
ロシュフォールはベルトランを一突きし、ベルトランは息絶える。

このシーンが嫌いだ。どうして自分の所属する団体が、仕える人間が、その人間の生き方を決めなければならないのか?
(続く)


さまざまな逃げ

・責任から逃げる
電話に出ない。判断をしない。無批判でただ人の意見に従う。漫然と仕事をする。
・人との関わりから逃げる
相手の話を遮る。話を聞かない。イエスマン。自分から喋らない。
・自分から逃げる
自分で決めたノルマをこなさない言い訳を考える。言い訳には全力を尽くす。考えることをやめて眠る。昔の自分を否定する。今の自分も否定する。自己像が常にネガティブ(心の奥底では尊大)。

こうして心の筋肉をやせ細らせてストレス耐性がなくなるので、ますます逃げる。


思考を明確に

頭で考えているだけではいけない。
頭の中では、論理的な短絡や思い込みを除外することが難しい。独りよがりになる可能性が高い。
また、前に考えていたことを思い出したり、直前に考えていたこととの整合性を取ることも難しい。
自分がそれができるスーパー人間ならいいんだけれど、できない。
一度文章にすることで、考えを客観的な形にすることが出来る。形にしたものは、検証がたやすい。自分に対する第三者の目を容易に作ることができる。
他人の書いたものを読み自分の糧とするだけでなく、以前自分が書いたものも自分の糧にできれば、と思う。自画自賛ではなく、批判の材料として。
未来の自分に値するものを、たくさん書きたい。