幻想について

ちょっと脱線します

 

 

面白い記事でした。

はてなブログに移行して半年程度、記事を書く前に表示されるトップページには注目記事が表示され、恋愛工学などモテ関連の話題がしばしば上位に上がります。その中でも私は「男らしさ」「女らしさ」という共同幻想を相対化する記事に目が行くようになりました。日本人は概して同質性を好み異端を排除するが、彼らは言葉の力を使って同質性の圧力を無力に変えてしまう方法をとって抗う人たちでした。

私は「男らしさ」を要求されていました。Kの父は典型的な明治型父権の人でしたから、私にも同様の要求がありました。しかしKはその父を乗り越えた存在でしたので、私よりも父性が強いです。私の父は父性?男らしさ?なにそれ?という人間だったため私にロールモデルは存在しませんでした。私は「男らしさ」についての圧力を苦にしたこともありませんでしたし、アムロが「だって僕は男なんだから」と独白しても何の気持ちも湧いてきません。むしろアスペルガー(自閉症スペクトラム)の診断が降りてからは、「人間らしさ」という全人類から受ける圧力に苦しんできたことの方が大きいです。自閉症が脳の気質由来の新しい思考のありかただという動きがありますが、私は親近感をおぼえつつも連帯感を持つことには違和感を抱いています。明確に言語化できなくてもどかしい。言語を自在に操れる人間ってバケモノじゃないの。わたしゃ他人の思考のつぎはぎしかできないっちゅうのに。

私は10年以上周囲の圧力に対応できるように奮闘してきたつもりでしたが、何も進歩しませんでした。すべての努力は方向が間違っており、無駄でした。死ぬまで未成熟のまま、男らしさも人間らしさも身につけることなく年を重ねるでしょう。はてこさんの記事は物語による救済をテーマにしていますが、私は物語が、形を変えた圧力になるとしか思えません。それは自分に適した物語を私が見つけていないだけなのかもしれません。幻想の効用は認めます。今後も私はファンタジーを探して様々な本を読み続けることでしょう。しかしそれはいろんな人間が何を考えているか知りたいという純粋な興味からであって、自分を救うかもしれないとは期待していません。私はもう疲れました。幻想に自らを従える意味が分かりません。それは自分じゃない。もうこんな不毛な階段から降りたい。


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