言葉を根拠づけるもの

私たちは言葉を使って思考も会話もするけれど、言葉は記号だ。物事を表す代表者だ。記号はどうあがいたって抽象化を免れないので、言葉が表わす物自体を直接表現することは不可能だ。ある物事を私がAであると感じた。しかしそれが本当にAである保証は全くない。実はBかもしれない。これを客観的に確かめる手段はない。
自分の中でさえ矛盾が起きる恐れがあるというのに、さらに厄介なことに私が認識しているAということを、相手がAと認識するであろう根拠は、ない。私とあなたがAを会話によってやり取りできている気がするのは、幻想だ。まぼろしのうちに私たちは生きている。言語世界とは言語による共通了解が存在するという前提によって成り立つファンタジーだ。
ということを、外国語の学習時に感じる。最近読んでいる哲学入門の解釈の一つでもある。こんなことくらい、20代のうちに勉強しておくんだったなぁ。ああ人生無駄したなぁ。外国語を外国語のまんま学習したって絶対に何もわからない。ハングルをずっと眺めていて分かるようになるかというと、ならない。読書百遍意自ずから通じない。だってこの文字と我々の言語世界との共通了解がまったくないんだもの。ハングルは日本語と文法以外の共通点が少ないので本当に厳しい。いずれ学びたいアラビア語にも同じものを感じる。ハングルには一部に漢字由来の言葉もあるが文字だけ見てもはじめは絶対わからない。なので、我々は日本語と外国語を訳によって接続する。日本語に結び付けることで、共通了解の世界に新しい記号を結び付け、外国語をいわば母国語の代替物として学ぶところから始めざるを得ない。(つづくかも)


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